大津歴まち百科 第2回ワークショップ
「大津の瓦生産、その実態に迫る!」

  • 講師:樋爪修(大津市歴史博物館 館長)
  • 内容:講演/松本瓦などの見学
  • 2015年10月24日(土)10:00〜12:00
  • 元・正蔵坊(登録有形文化財;滋賀県大津市小関町3-10)

◆概要

image001 近江の瓦といえば「八幡瓦」が有名ですが、かつては大津でも瓦の生産が盛んでした。江戸時代初期、大津百町に隣接する松本村では瓦師が活動していたことが確認でき、市内の寺院や民家に現存する瓦のヘラ書き銘を調査すると、瓦師の実態が浮かび上がります。また、現代の一般の民家で葺かれている桟瓦の発祥は大津にあるといわれます。
今回は、絵画資料や古文書、図面などを通して大津に誕生した瓦生産の実態に迫ります。

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◆樋爪修(大津市歴史博物館館長)氏による講演

→主な著書に『保存版ふるさと大津』郷土出版社(2013年)、共著に『京都の大路小路』小学館(1995年)など

樋爪
大津は瓦の発祥地

大津が瓦の発祥地であることは、一般にはまだよく知られていません。平成20年に大津市歴史博物館では瓦の展覧会を行いましたが、来館者は多くはありませんでした。
江戸時代の大津には、寺院がたくさんありました。現在これらを調査する際には、寺の床下などに置いてある瓦を見てまわります。シーボルトの観察記録にも出てきますが、日本の瓦(屋根)は本瓦葺き、丸瓦、平瓦、桟瓦葺きなど種類も多く、シャチ、鬼、シギ、フクロウなど、デザインもバリエーションに富んでいます。ほかにも獅子口と呼ばれる飾り瓦や、瓦を組み合わせた雁振り瓦、丸瓦を輪違いに並べる配置などがあります。

江戸時代の大津の屋根は?

【日吉祭礼図屏風】これは元禄年間(1700年頃)の大津の町の風景を描き、屏風仕立てにした絵図です。札の辻、京町通り、八町通りが描かれ、高札も掛かっています。メインストリートの京町通りは、板葺きの建物で、捲り除けの石が置かれています。家と家の間には、屋根卯建・袖卯建が見られます。この名残か、大津では現在でも左右に着物の袖がついたような袖卯建のある家が多いですね。白壁の蔵は、この時代でもすでに瓦葺きになっています。防火の意味もあり、大事なものを収納する場所は民家よりも先に瓦葺きになっていったようです。黒い丸印で描き分けられているのは本瓦葺きの丸瓦で、それぞれの間にあるのが平瓦でしょう。周囲の店には暖簾が掛かり、繁盛している様子が窺えます。暖簾に商売繁昌を象徴するムカデが描かれた店もありますね。この時代、縁起をかついだ「百足屋」という屋号は(他の文献でも)多く見られます。

江戸時代版ガイドブック「名所図会」から探る大津の屋根

1780年頃になると「名所図会」と呼ばれるものが登場し、グラフィックを多用して土地々々の名所を紹介しています。今でいうガイドブックのようなものです。名所図会は、制作の段階で下調べをしたり、土地の絵描きを雇って描かせているので内容はわりと正確だと思います。
【名所図会A】「大津八丁」と書かれています。逢坂山を超えてまっすぐ札の辻まで行く、あの辺りを八丁通りといいますが、当時は宿屋街で、京都からの来訪者はここでまず客引きの洗礼を浴びます。東海道筋のメインストリートである八丁通りでは、すでに多くの家々に瓦葺き屋根と卯建が出てきていますね。
【名所図会B】同時期に描かれたこちらの絵にも、瓦葺きの家がちらほら出てきています。この絵の舞台・追分は、「東海道と伏見街道(淀を経て奈良に通じる街道)に、馬の背を追い分ける」という意味で名付けられた場所です。大津と京都の間に位置し、街なかと比べると少しひなびた場所でした。この追分のように宿場と宿場の間にある地は「立場(たてば)」と呼ばれ、名産が生まれやすい地域になります。大津の立場では「大津絵」や「大津そろばん」、「走り井餅」などが生まれ、草津の立場では「うばがもち」が生まれました。(この名所図会には)大津絵を薦めている店の主人も描かれていて、そろばんらしきものを店頭に並べているところもありますね。東海道と伏見街道への分岐点になる場所には、道しるべの道標が立ち、高札場もあります。先の1700年頃の貧相な高札と比べ、こちらの高札場には屋根が付き石を積んで柵が設けられています。御上から貰った高札に手をつけられないようにしているのでしょう。宿場と宿場の間にある追分では、藁葺きと瓦葺きが混在した町の風景になっています。

明治期の古写真から探る大津の屋根

【古写真】これは明治10年代(1877〜1887)に高観音(三井寺五別所の一。近松寺)から長等学区を写したものです。見渡す限りの建物が、瓦屋根になっています。一体いつ頃このようになったのでしょうか。

【配布資料】元禄年間(1688〜1704年)に描かれた日吉祭礼図屏風と、寛政年間(1789〜1801年)に描かれた名所図会を比べると、元禄のときに板葺きだったものが寛政のときには瓦葺きが普及しているのが分かります。その間80〜90年です。この期間に享保年間(1716〜1735年)というのがありました。八代将軍徳川吉宗が火事などへの対策に瓦葺きの奨励をしたそうで、やはりこの80〜90年間に瓦屋根への移行があったと考えられます。但し、これは都市部に限って言えることで、周辺部ではまだまだ瓦葺きは行き届いていなかったと思われます。

大津の松本瓦 と 近江八幡の八幡瓦

大津では、元和年間(1615〜1624)に活躍した瓦師・江戸茂左衛門の記録や、江戸初期(1600年頃)の元号がへら書きで書かれた瓦の現物なども発見されています。
 一方、八幡瓦の登場は元禄年間(1688〜1704)といわれており、京都深草から引っ越してきた寺本某が瓦を葺きはじめた、と書かれた瓦が見つかっています。よく言われるのが、天正13年(1585)信長の死から3年後、豊臣秀次が八幡山城を建てる時に瓦を葺いた瓦師が居たということですが、これについての確かな記録は残っていません。やはり元禄年間の八幡別院建て替えのときの由緒書き(寺本仁兵衛が瓦を葺いた云々)が近江八幡における八幡瓦を示す最古の記録ではないでしょうか。

松本瓦の土採り場はどこだったのか?

【近江輿地志略】膳所藩の藩士・寒川辰清(さんがとききよ)により編纂された近江の地誌(1734年完成)。藩主本多安敏の命を受けた寒川は、近江全土を歩きまわりこれを書き上げました。「土俗相伝」とあるように寒川は地元民から土地々々に伝わる話を聞いて回り、さらに「民部古城址」という言葉を記しています。これは松本に城があったことを意味します。「むかし松本民部と云者あり。三井寺の僧と戦て死すと云。其城地の跡也と云。今は田の字となれり。(中略)後は山、前は田也。長等・比叡・比良も山続にして、大津の人家及湖水等までも見渡され、景色よし。此辺の土性、よく瓦を造に勝れたりと。」と書かれ、さらに土を採取し続けている現状を見て、100年後この土地は変わっているだろう、と述べています。どうやら松本瓦とこの城跡というのは関係があるのではないかということが、この1734年の記述から窺えるわけです。
 【松本村の絵図面】諸子川、常世川、吾妻川が流れています。常世川の上流、三角州の東側に「田の字となれり」と書かれており、ここが土採り場だったと分かります。また平野神社の近くには「古城」があり、そこから「城の川」に行くまでの間にも土採り場があります。この地図は測量に基づくものではないため正確さには欠けますが、先の『近江輿地志略』に出てくるのと同じ言葉が地図上でも使われている点は注目に値します。
 【江戸時代(1800年代)の絵図面】別の地図にも同様に、常世川を上がったところに「土取場」と書かれています。また吾妻川がぐうっと曲がっている辺り(現在の滋賀県庁の辺り)には、「瓦屋」という文字が見られます。

松本村の瓦師はどこに住んでいたのか?

【明治7年(1874)の測量図】平野神社から浜通りを東にいったところに、石場の港がありますね。ここに昔、常夜灯がありました(今はびわ湖ホールの横に移設されていますが)。実はここら辺にずっと瓦師が住んでいたのです。
【名所図会C】石場の港が描かれています。丸子船という和船が係留されていますね。そのすぐ横にある家並のところに、「瓦師」と書かれています。やはりこういう場所に、瓦師がいたのです。(先の絵図面にあった)「土取場」や「瓦屋」という言葉が何を指すのかはっきりとは分かっていませんが、瓦師自体はこういうところに集住していた、ということは言えそうです。【当時の住宅地図】石場の港周辺の住宅地図(世帯主の名前等が記載された地図)です。ここに「九太夫 細工場」と記載されています。九太夫についてはあとで話しますが松本の瓦師・清水九太夫のことで、ここは彼の作業場だったようです。隣には九太夫の住居も記載されています。【久遠寺の瓦の写真】「安政三年 辰二月 大津石場 瓦師九太夫」と瓦に彫られています。
【配布資料】「松本村瓦師の登場」のところ、(2)に井上七左衛門、(3)に飯塚出雲守、(4)に清水九太夫と書いてあります。清水九太夫は石場の港界隈に住んでいましたね。また、昔の資料を見ていると、「瓦七」という文字が出てきますがこれは井上七左衛門のことだと思います。七左衛門は、京町通りと中町通りの合流点にあたるところに瓦の干場をもっていました。やはりこの辺りが、松本村瓦師と呼ばれる人たちの集住地だったと考えられます。
【名所図会D】やはり名所図会というのは当時の写真集と思って頂いてもいいくらいの正確さがありますね。この絵には、平野神社の境内、鳥居、それと京町通りが描かれていますが、鳥居横の空き地に瓦を並べている人々がいますね。おそらく瓦を干しているのでしょう。さらに天秤棒を使って瓦を運ぶ人の姿もあります。名所図会は隅々までじっくりと眺めると、様々な発見があるようです。
【延宝7年(1679年)の松本村検地帳】松本村瓦師というのはいつから居たのでしょうか。それがこの松本村の土地を調査した検地帳で確認することができます。字名(住所)、所有畑の質・広さなどの記載につづいて、「(江戸)茂左衛門」の名前が書かれています。田んぼを持っていたのですねえ。ほかにも「(井上)七左衛門」「(清水)九太夫」という名前が見られます。
このように図会や地図、現存の瓦、検地帳からも松本村瓦師の存在を確認することができます。

シーボルトが見た松本瓦

シーボルト江戸参府紀行】文政9年(1826)2月、シーボルトは長崎の出島を出発し、江戸参府(4月)を経て、6月に長崎へ帰り着くまでの道中様々な土地に滞在し、それを紀行文として書き著しました。その旅行のなかでシーボルトは大津にも立ち寄っています。シーボルトは松本瓦の製法に興味をもち、それに関する詳細な記述を残しています。5月31日の文には、「余は途中瓦焼く所を訪ひしに其持主は余の傍に来りて、その製法を説明したり。」「彼等は欧羅巴に於ける如く一ヶ片より作らずして、数ヶ片より作り。應用の異なるに相当して構造も相異す。」様々な種類の瓦を作っていた、ということです。「数多の日数をかけて、粘土を足に踏みて、それを四角な大片となし、作らうとする瓦の如何に従ひて形を与え。次に弓に張りたる銅線を用ひて、一ッ一ッ好みの厚さなる薄板に切り、それを瓦の形したる凸の木型(母屋型と云う)の上に廣き板もちて打付け。」母屋型とは、瓦の製作道具の一部です。「暫の間順順に乾かすために立て並べ。次にそれを一ッ宛取りて、他の確として動かない支脚の上に於て轆轤(ろくろ)の如くに旋動する凹の板(荒地と云う)に載せてそれを裁る。」昭和期に類似の道具がありますが、当時もそういうものだったのだろうと推測できます。

谷口酒店ご主人のお話

現在、平野神社の近く、京町通りに谷口酒店というお店があります。店舗のおもてには松本瓦を並べておられます。ご主人曰く「京町通りより山手で家を建てたり畑を耕すと、瓦の破片が山ほど出て難儀した」ということです。(当時は)あの辺りで瓦を焼いていたのでしょうか、(しかし先ほどの絵図面で)「土取場」と書かれていたのはもう少し山手なのです。ここら辺の整合性というのは、時代によるものなのか、それとも広範囲に及ぶものだったのか、謎めいています。より年代のはっきりした絵図面などを見てみないことには分からないわけです。

『大津市史』に見る松本村瓦師

【大津市史 下巻(明治44年)】これは大津で最初の地域誌です。その人物史のなかで「井上信重」と書かれています。「(井上家は)世々、松本にあり。通称、七左衛門。瓦工をもって業とせり。各寺院、三井寺、石山寺に用いられし瓦は多くこの家で焼いた。信重は宝暦年間(1751〜1764)の人にして、その作れるところ実に逸品。21代七左衛門が明治19年3月に亡くなり業を廃した。」と書いています。また、井上七左衛門の作歴(現存のみ)も載っています。最も古いものは貞享3年(1686)製の善通寺の瓦です。記録は明治17年(1884)西方寺のところで途切れているので、これ以降は現物が見つからないのかもしれません。また瓦師・飯塚出雲守の作歴は、貞享元年(1684)から始まっています。飯塚家は、雄琴や仰木の寺院などでも瓦屋根を葺いていたようで、出張ったのか分家があったのか、とにかく活動範囲が広かったことが分かります。清水九太夫の作歴は延宝7年から始まって明治まで続いています。

瓦に彫られた年号と瓦師の名

【元和年間の瓦の写真】これは善通寺にあった江戸茂左衛門作の鬼瓦です。脇のところには「江州滋賀郡 江戸茂左衛門 藤原朝臣」と彫られていますね。【享保年間の瓦の写真】これは井上七左衛門の鬼瓦。「本長寺」と書かれ、反対の脇には「江州滋賀郡 藤原朝臣 井上七左衛門作」とありますね。名前の下に花押が彫られているのもあります。これらの名前は一体誰が書くのでしょうね。やはり本人でしょうか。でも瓦師って格好いいですよね、瓦は一度屋根上にあがってしまったら、葺き替えのときにでもならないと誰が作ったものかなんて分からないですもんね。【七左衛門の飾り瓦の写真】鬼の面が三面ありますね。三面鬼瓦といいます。
【清水九太夫作の瓦の写真】九太夫の作歴は偏っていまして、ほとんどが膳所で見つかっています。これは膳所の若宮八幡神社で見つかった獅子口と呼ばれる瓦で、「天保6年(1835)膳所 御用瓦師 清水九太夫 子孫」と彫られています。「膳所御用瓦師」というのが居たのですね、そしてそれが清水九太夫のようです。次も九太夫作ですが、「清水九太夫 久為」と書かれています(「九太夫」は襲名で久為は本名)。中国の妖怪「白澤」や鬼瓦、猿、竹に虎、膳所城の隅櫓にのっていた鯱瓦などが見つかっています。この鯱瓦は一対の現物があり(一つは大津市歴史博物館に、もう一つは瀬田小学校に展示)ますが、どういう訳か「文政7年(1824)清水九太夫 為久」と書かれています。筆致も違いますが、自分で自分の名前を間違えますかねえ、この辺りが謎なのです。

松本村瓦師と八幡瓦師の活躍エリア

飯塚出雲守は雄琴や仰木に出張っており、清水九太夫は松本村に住みながら膳所へ行っていますね、井上七左衛門などは大津を範疇にしていたようです。さらに、七左衛門や九太夫が焼いた瓦が、草津から出てきています。湖を渡って出張し、草津で瓦を作っていたのだろうと思われます。
一方、小松や和爾などの堅田以北で(出土されるもの)は八幡瓦なのです。湖の対岸から来ていたようですね。八幡瓦の記録を読んでいますと、湖西や彦根藩領などへ出張って行ったと記録されています。そういう所へ八幡瓦を送ったり或はまかり入れて屋根を吹き替えた、と書かれています。ですから八幡で瓦を作って船で運ぶだけではなく、瓦師が出張して現地で瓦を作っていたようなのです。
松本村瓦師も、草津や下笠などへ出張って行って瓦を作っているようです。このように、松本瓦・八幡瓦それぞれに供給圏があったようです。ところが、坂本の里坊(山麓にある各堂宇)にある鬼瓦には、八幡瓦の瓦師の名前と、北浜の瓦師の名前がそれぞれ左右の肩に書かれています。これは合作なのか、それとも合体させる技法があったのか分かりませんが、こういう風に瓦の現物を見て行くと非常に面白いということです。

まとめ(近江国における瓦史)

【配布資料】瓦師の登場は、文禄、慶長でした。この文禄年間(1593〜1596)に、園城寺(三井寺)は豊臣秀吉による闕所(領地没収)に遭い潰されます。そして慶長4〜5年(1599〜1600)に三井寺金堂は再建されます。この再建の記録を見ていますと、京都伏見から善太夫や惣左衛門という人が来ていたと残っていて、この頃はまだ伏見から瓦師が来ていたのが分かります。元和年間(1615〜1624)になると、松本村瓦師・江戸茂左衛門が出てきます。延宝年間(1673〜1681)に清水九太夫、貞享年間(1684〜1687)に井上七左衛門と飯塚出雲守が出てきます。さらに、今日はお話する時間がありませんでしたが、延宝の時代に、桟瓦を発明した西村半兵衛が登場します。この人は、京都深草からやって来ています。ですからこの時期辺りに、京都からきた瓦師と大津出身の松本村瓦師とのガッチンコがあったのだろうと思われます。また、元禄年間(1688〜1704)に八幡瓦が出てきますが、これも京都深草からきた寺本仁兵衛によって生みだされました。どうも近江は京都と関係が深いようですね。
文化年間(1804〜1818)辺りから、別の系統の瓦師が登場してきます。先ずは別所村の長坂セイシチ、続いて文政年間(1818〜1830)に高島の方で「油屋」という屋号の瓦師が登場します。さらに天保年間(1839〜1844)瀬田の南大萱に「瓦工」片山幸七が出てきます。・・・松本瓦(大津)と八幡瓦(近江八幡)が栄えて、それぞれ仰木・雄琴・草津、堅田以北などで活躍しますが、その後、長坂(別所村)・油屋(高島)・片山(瀬田)など新しい瓦師が台頭しはじめます。そのような中、松本村の瓦師は衰退していきます。幕末から明治の記録を見ていると、「片手瓦師」というのが出てきますが、これは本業で百姓をしながら余業として瓦師をやっているような人々のことです――。
現物の瓦と、古文書や絵図面などの情報をあつめて繋ぎ合わせていくことで、点と点の間の隙間が埋まっていきます。それとともに、近江には松本村瓦師の他にも多くの瓦師がいたということが明らかになってくるだろうと思います。それらの新しい瓦師は1800年以降のことで、以後淡路などの瓦に押されて廃れていくものかも知れません。でも矢張り、「産業遺産」として大津の松本瓦というのは誇るべきものだと思いますし、桟瓦というものが大津で誕生したのも一つの象徴的な出来事であると考えます。
以上です、ありがとうございました。

◆松本瓦などの見学(福家俊彦による解説)

【ロウソク段と本瓦・桟瓦】これは京都の妙心寺から譲り受けたロウソク段(本瓦と桟瓦の中間に位置する瓦)と呼ばれる非常に珍しい瓦です。一部の禅宗の寺に於いて、土塀や厠の屋根など少しランクの低い建物に用いられました。
【獅子口と飾り瓦】これは飯塚の作です。屋根の妻にこれを載せて、左右のひれには飾り瓦がつきました。
【鬼瓦3つ】「飯塚出雲守 藤原清英」と書いていますね。この時期の鬼瓦は、三井寺だけでなく大津の各お寺でいまも現役で屋根に載っていたり、また降ろされて展示されるなどして数多く残っています。

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