大津歴まち百科 第3回ワークショップ
「木と森の文化史」

  • 講師:小林圭介(滋賀県立大学 名誉教授
  • 内容:講演/木の岡ビオトープ(大津市木の岡)の見学
  • 2015年11月21日(土)13:30〜16:30
  • 元・正蔵坊(登録有形文化財;滋賀県大津市小関町3-10)

◆概要

image001古代より、木と森は人間の生活にとってなくてはならないものでした。縄文時代には、森で狩りをしたり木の実をとったり、丸木舟を造ったりしました。森林は、自然災害から人間を守り、飲み水や空気を供給してくれました。さらに四季折々の森林の美しさは、多くの歌人・画人を惹き付けました。時代が進むにつれてその利用方法も変わっていきますが、人間の暮らしを支えていたのはいつも木と森だったのです。

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◆小林圭介(滋賀県立大学名誉教授;理学博士、農学博士)氏による講演

→1940年長野県生まれ。南極・北極の植生研究、地域植生誌の研究、高山帯におけるハイマツ群落の植物社会学的研究など。主な著書に『日本植生誌』『植物社会学–生態学講座4』『滋賀の植生と植物』など。

小林
滋賀の植生について(太古〜縄文時代)

以前NHKが、縄文人の生活についての特集を放映していました。縄文人は森の中で生活し、特に食べ物などには恵まれて、もしかすると弥生時代以降の人々よりも豊かで幸福な生活を送っていたのでは、という内容のものでした。
【170〜180万年前の滋賀県の森林を描いた絵:琵琶湖博物館展示】この時期というのは比較的温暖で、滋賀県の森林では、メタセコイア植物群と呼ばれるメタセコイア、イチョウ、フウ、イヌスギなどの植物が繁栄していました。その後氷期に入り、だんだんと寒さが増していくなか(80〜160万年前頃)これらの植物は絶滅していきました。以後、現在の日本の亜高山帯など比較的寒い地域に出てくるようなチョウセンゴヨウ(現存する種)やトウヒ、シラビソ、ミツガシワ(滋賀県・山門湿原に自生している)などが繁栄する時代となります。このような寒い時期が終わる13000年前頃になると、今度は照葉樹林や常緑樹林といった植物の時代に入ります。この時期というのは縄文時代の始め頃で、気候は温暖で、雨が多くなってきますからそこに広葉樹の林が生まれます。広葉樹は実をつける木が多いため、そこに縄文人の暮らしが始まるわけです。
【穴太遺跡から出土した植物】大津市の穴太遺跡からは、この時期の植物が出土しています。非常に多くのイチイガシが見つかっており、中には大木を思わせる巨大な根も発掘されています。他にはサカキやツバキの株、カエデの仲間、ナラ類の仲間、トチノキ、カヤ、そしてオニグルミの実などが出土しています。
【穴太遺跡の復元図】以前、滋賀県林務課主催の植樹祭に於いて、これらの出土物の位置などを『滋賀の植生と植物』という本にまとめました。出土位置から、カエデの仲間やイチイガシ、オニグルミが点在していたという穴太遺跡の復元図を描き出しました。このように縄文時代は温暖な気候下に照葉樹林が発達し、人々は大変豊かな生活を営んでいたと推測されます。

縄文時代の食生活

【木の実の写真】縄文時代には、実を付ける木がたくさん自生していました。オニグルミは果肉を剥いだところに本体が出てきます。これを割って、中の物を食べていました。ほかにもトチの実(現在でも、実を蒸して餅について食べています)やクリ、シイの実、コナラの実、アベマキの実など多種多様な実を食べていました。縄文土器の誕生によって、これらの実を熱湯で煮てあく抜きをして調理することが出来るようになりました。さらに、実を粉状にしたものと野生の熊や猪などの肉を一緒に食べていたことも、他県の遺跡の出土物から分かっているようです。
【現在の大津の森林】これはシイの林ですね。アラカシやコナラなども交ざっています。この写真のような照葉樹林というのは種類も非常に多くなっています。「シイの仲間」は大別するとコジイ、スダジイに分かれますが、滋賀県で特に多い「カシの仲間」にはアラカシ、シラカシなどがあり、県内でも降雪量の多少や地域の南北によって同じカシの仲間でも種類や分布が異なります。

縄文人の木製品と樹種

【一覧表】福井県の鳥浜貝塚から出土した縄文人の木製品と、それに使われている材(樹種)を一覧にまとめました。ユズリハ、ヤブツバキ、サカキは主に石斧の柄に使われているのが分かります。私も子どもの頃はサカキの枝の股のところにゴムをつけて手製のパチンコとして遊んだものですが、彼ら縄文人も、サカキの股を利用して石斧を作っていました。股のところに石(刃)をつけるのですが、その部分と枝との角度は約60〜70度に限られていて、柄になる部分(枝)の長さは約60〜80cm、また石(刃)を付ける台の部分の長さが約30cmとこのように決まっていたようです。賢いことに、特に枝振りが60〜70度のものが多い木(上記三種)を選んで使っていたようです。そのほか、現在も板材や梁材として使われているスギもこの頃から使われていましたし、硬くて粘りのあるカシは弓などに加工して使っていました。

天平建築と湖南の変遷(8世紀前後)

縄文時代は自然を十分に活用しながら生活していましたが、天平時代(7世紀末〜8世紀中頃)になると活用の仕方が大きく変わってきます。現代ではすっかり禿げ山になってしまった田上山地も、この万葉集の時代には禿山ではありませんでした。

【万葉集より-藤原宮の役民が作った歌一部抜粋-】
……淡海の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手を 物の布の 八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ……

藤原京の遷都にあたり、都建設の用材として田上山地から材木を運んだ時の歌で、ヒノキなどを瀬田川から宇治川の方へ筏を組んで流していった、という内容です。このことから、当時の田上一体の山はうっそうとした林に覆われ、常緑の針葉樹や広葉樹が茂る山だったのではないかと想像できます。山の木を切り出して運搬し加工した場所としては田上山作所、甲賀山作所、高島山作所の3カ所が記録に残っています。そして近江の立派な木材は切り出されて奈良の都の造営に使われました。ちなみに平城京の造営に使われた木材量の内、滋賀県から持ち出された木材量は75000tで、これは30cm角×30mの材として換算すると27万本もの材木にあたります。このように田上が木材採取の地として選ばれたのは、立派な森林が存在し、優良なヒノキを中心とした森林があったこと、そして琵琶湖から瀬田川を通って筏で木材を運搬することができたことが理由として挙げられます。また、当時の奈良盆地には木が少なくなってきていたことも要因の一つに数えられます。
都造営の結果として、田上山一帯は現在のような禿山になってしまったと考えられます。
【石山寺本堂と多宝塔の写真】田上山一帯で採れた木材は、奈良だけでなく滋賀県(近江の国)でも使われていました。例えば石山寺の本堂です。これは傾斜する地面に束柱を立て(て床を上げ)た「懸造」と呼ばれる建物ですが、この束柱に田上山一帯の木材が使われました。また、多宝塔の尾垂木、出組、三斗組などにも組み合わせて使われていました。【天平6年(734)の石山寺造営に関する資料】資料によれば、石山寺の造営には甲賀、田上、高島の木材を使っています。スギやヒノキを主として2301本の材が使われ、一本は約7mで、甲賀山作所からは251本、田上山作所からは1138本の材が提供された、と記録されています。

明治の砂防法

【明治41年(1908)の田上山地の写真】スギやヒノキなどが茂っていた田上山地も、この頃にはかなりの荒廃が進んでいました。
明治4年(1872)、五畿内(近江、大和、山城、摂津、河内)に対して砂防法五ヵ条が民部省から出され、新規に山を開いて木材を搬出するには許可を得なければならない、と定めました。
明治6年(1874)には二府四県(京都、大阪、奈良、堺、滋賀、三重)を対象に淀川水源砂防法が出され、本格的な砂防工事が始まりました。

デ・レーケの山腹工法

当時、日本では砂防工事に精通する土木技術者は少なく、オランダから工師ヨハネス・デ・レーケ(1842〜1913)を招請して山腹の緑化工事(山腹工法)を行うことになりました。デ・レーケの提唱する山腹工法とは、先ず、切り立った山の斜面を緩やかにし、そこに1〜2m間隔で段を設けます。段の水平部分には稲わらを埋めて、その上に山土を客土として持ってきます(客土のほかには過リン酸石灰を施肥した)。垂直部分には山から取ってきた芝を張り付けて、段が崩れるのを抑えます。一定間隔にススキの株などを植えて土を縛るような方法もとりました。また、空中の窒素を土中に固定して土を肥沃にするために、一年生植物のヤシャブシやヒメヤシャブシの植栽、さらに痩せ地に生えるアカマツなどそれぞれの性質を活かした植栽を行いました。
【山腹工施工の流れ】デ・レーケの山腹工法は現代まで続いています。先ず、山腹の削られた赤土部分(禿赭地)に切工を施してなだらかにします〈①のり切工〉。そこにブロック板を積んで、斜面が崩れないようにします〈②土留工〉。斜面に筋をつけていきます〈③すじ付け〉。筋に沿って階段をつけていきます〈④階段工〉。階段が崩れないように垂直面に芝などを貼り付けていきます〈⑤積苗工〉。水平面にはスギやヤシャブシを植えていきます〈⑥斜面緑化工〉。この時マツとヤシャブシを同時に植えると問題が起こります。成長の早いヤシャブシやヒメヤシャブシが、成長途中のクロマツやアカマツの上を覆ってしまい、成長できずに消えてしまうのです。そこで、ヤシャブシがある程度伸びたところで上部をちょん切ることにしました。切り落とされたものは肥料木として役立ち、同時にクロマツやアカマツの成長を妨げないようになりました。現在もこの手法が採られています。
【昭和8年頃の山腹工とオランダ堰堤の古写真】(堰堤とは、流れ出す土砂をせき止め、川床を安定させる目的で築造されます。)これは、昭和63年(1988)に大津市の指定史跡になったオランダ堰堤(桐生町、草津川上流にある)の古写真です。写真に見える、昭和8年当時の山腹工では大雨が降るたびに土砂が流出して、このオランダ堰堤を埋めていきました。オランダ堰堤は高さ7m、天端の幅5.8mで、あまり大きい方ではありませんが、現在でもその機能を発揮しているため、日本の産業遺産300選にも選ばれています。施工期間は明治15年(1882)〜22年で、設計は田辺義三郎さん、その指導をデ・レーケが行いました。このことから「オランダ堰堤」と呼ばれるようになり、また一部では、鎧のように見えることから「鎧ダム」とも呼ばれます。
【明治41年(山腹工施工前)と平成19年の大津の山景】写真を見比べると、山に緑が戻ってきているのが分かります。また1974年の記念植樹の際にも多くの方が参加され、植樹を行いました。

大津市の巨樹・名木(保護樹木、保護樹林、天然記念物について)

「大津市の自然環境の保全と増進に関する条例(昭和51年施行?)」、これは当時審議会のメンバーだった私が、ほとんど私の考えと文章でもって作らせて頂いた、非常に思い入れのある条例です。保護樹木・保護樹林というものを指定していきながら、大津市の自然環境の保全と増進に寄与していく条例です。大津市の現状を鑑み、どの程度の樹木・樹林を目安にするのか、当時の委員であった比叡山・森川宏映さんと議論しながら基準を作成しました。
保護樹林に指定されたのは、鎮守の森(御霊神社)、穴太の森(髙穴穂神社)、膳所神社の森、平津の森(戸隠神社)、寺辺の森(新宮神社)の5ヶ所です。
保護樹木に指定されたのは当初37本ありましたが、台風による倒木や開発者・所有者の事情で切り倒すなどされて27本まで減りました。いくつかご紹介します。
【善通寺のイチョウの写真】幹回り:3.8m 樹高:26m 樹齢:推定300年
【篠津神社のケヤキの写真】樹齢:推定400年
(【小野神社のムクロジの写真】)非常に良いムクロジで、以前私は天然記念物指定の候補に上げましたが、教育委員会事務局には通りませんでした。それは、神社の参道に生育していること、また枝が隣の上品寺敷地内に掛かっていること、が理由でした。しかしこのムクロジは近畿で最大級の巨木ですので、指定されなかったことは今でも非常に残念です。ムクロジというのは非常に面白い木なのです。種は黒く、数珠などにも使われますし、昔は羽子板の羽の頭に使われました。また果皮はサポニンを含むため、石けんの代わりに使われたり、去痰剤としても使われたりしていました。
【モミジバスズカケノキの写真】旧の県立体育文化館のところに植えられています。
(【園城寺のテングスギの写真】)こちらは大津市の天然記念物で、昭和51年(1976)に指定されました。
(【犬塚のケヤキの写真】)こちらも大津市の天然記念物です。昔、蓮如上人が京都から難を逃れて大津へ入った時、他宗の門徒から毒殺されかけたのを忠犬が身代わりとなって死んだそうで、この忠犬の亡骸を埋めた塚に欅を植えて弔ってやった、という伝説が残っています。これにちなんで「犬塚の欅」と呼ばれているのですが、推定樹齢600年のかなりの巨木です。
【和田神社のイチヨウの写真】こちらは天然記念物、保護樹木の両方に指定されている木です。垂れ下がる枝が特徴的です。石田三成が伊吹山中で捕まり京都に護送される時、この木に繋がれていたという謂れがあります。

大津市の巨樹・名木(オニグルミについて)

この講演の後見学に行く「木の岡のビオトープ」には、たくさんのオニグルミが生えています。
オニグルミは全国的に分布しており、川岸や山の急斜面に生える木で、滋賀県では北方の山地、高時川上流のケヤキが生えているエリアなどで見かけられます。雄花が垂れ下がっているのが特徴で、くるみの殻がゴツゴツしているところから「オニグルミ」と名前が付けられています。カシグルミのように手で握って殻を潰せるようなクルミもありますが、そちらは殻がゴツゴツしていません。オニグルミの葉は羽状複葉で、小葉と呼ばれる葉が奇数枚ついて一枚の葉を構成しています。実は薬効がありタンパク質や脂肪も多いので、縄文人は好んで食べていたのではないでしょうか。また材木としては、狂いが少なく木目も美しいので、家具、工芸などに広く使われています。明治から大正にかけては銃床にも使われていました。
信州もオニグルミの木が大変多く、現在でも植えているようです。名物・五平餅は、ウルチをついて炭火で焼き、すり鉢で擦ったクルミの実・味噌・砂糖を加えたタレを付けて焼きます。
オニグルミの実は食べすぎると問題があるようですが、脂肪分が50%もあり美味で、またこれを布に包んで木を磨くのにも有効です。人間の血液中コレステロールを除く作用や、痒みのある寄生性の皮膚病にはすりおろして患部に擦り込むと治るといわれています。そのほかにも霜焼け、腋臭、水虫にも効き目があります。また、樹皮・葉は薬用として用いられ、煎じて飲んだりします。外果皮をすりおろした汁は発毛作用があるともいわれます。煎じ汁で髪を洗うと、黒くなるとも言われています。

大津市の巨樹・名木(センダンについて)

センダンは琵琶湖岸によく生えている木で、滋賀県の場合にはお墓にもよく植えられています。センダンにも様々な成分・薬効が含まれています。現在開発中のようですが、センダンの葉や実、枝の抽出物にはインフルエンザのウイルスを死滅させるという実験結果が出ており、治療薬として製品化の準備も進んでいるそうです。葉には除虫効果もあり、昔は農家で除虫剤として使っていたそうです。実は「クレンシ」と呼ばれ、ひびや霜焼けに果肉を擦り込んだり、或は煎じて付けると効果があるとされています。また整腸薬や鎮痛薬としても使われます。樹皮は「クレンピ」と呼ばれ、根の皮や樹幹の皮が駆虫薬(回虫駆除薬)として使われました。材木は建築や家具、楽器などにも使われています。
では、センダンが滋賀県の墓地に多く植えられているのはどういう訳でしょうか。この由来は平家物語の中に出てきます。壇ノ浦の戦いで敗れた平家の大将・宗盛と子息清宗が、平安京へ送り返される途中、近江国篠原で処刑され、首を刎ねられます。二つの首は、センダンで作られた獄門台に置かれて晒されました。それは昔インドの方で魔除けや厄除けにセンダンの木を使っており、そのことが中国経由で日本に入ってきて、同様に魔除け・厄除けのためにセンダンの木をお墓に植える風習ができていたからです。つまり首を晒した獄門台も、切られた者の恨みが一般の人たちに向かないようにとの願いが込められていたようです。

マツと日本書紀と万葉集

「浮御堂のクロマツ」これは保護樹木には指定されていませんが、大津市の名木として大変有名です。
 日本書紀が編纂された720年頃は、マツの木の話は全く出てきません。例えば、スサノオノミコトが髪の毛を抜いて散らすとスギになり、胸毛はヒノキに、尻毛はマキの木、眉毛はクスノキになり、さらにスギとクスノキは水に浮くので船材として使うべきで、ヒノキは宮殿を造る材料に、マキの木は棺桶に使いなさい、と日本書紀の中に出てきます。マツの木は全く出てこない。しかしその後編纂された万葉集(一般に806年頃とされている)の中には、4500首の歌の内ウメが118首、マツが81首詠まれており、ウメについで最も多く詠まれた木がマツになります。

【万葉集より引用】
磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば また還り見む
意味:松の枝を引き結んで(幸せを願い)、運が良ければまた浜松に戻り松を見ましょう。

飛鳥時代、有間皇子は大化の改新で知られる中大兄皇子と不仲で、蘇我赤兄と謀反を企んでいましたが裏切られ、捕えられて護送される時に詠んだ歌で、マツに寄せる万葉人の心情が現れています。当時、マツには幸せを願う意味があり、その後日本では祝い事などにも使われるようになっていきます。

マツと日本庭園

【日本庭園における松、松の図】日本の庭園のほとんどが、マツを主役に造られています。美しい自然と四季の変化に富んだ日本の、特に冬の庭園においては、マツの緑そして枝振りが人のこころを楽しませてきたようです。「かぶり松」「はごろも松」「ひょろ松」等々、枝振りの名前も多数存在します。ほかにも「松風」「松声」「松月」「松雨」などの言葉も作られて、風情をより深く楽しんでいたようです。有名な松の庭園としては、「蘆花浅水荘の庭園」「島根県安来市の足立美術館の庭園」「姫路市の好古園」「松江市大根島の由志園」「新宿御苑」「高崎市三ツ寺公園の庭園」などが挙げられます。日本の庭園というのは、マツと石と水から成っています。

万葉人の高い自然観察力

日本のマツは大別すると、葉が二本のものはクロマツ、アカマツ、リュウキュウマツの三種があり、五本のもの(五葉松)はハイマツ、チョウセンゴヨウ、ヤクタネゴヨウの三種があります。田上山地には立派なヒメコマツ(五葉松の一種)が生育しています。
先ずはアカマツとクロマツについて見ていきます。自然の状態でも雑種(間の子)が存在しますので、一見しただけではアカ、クロを見分けるのは難しいです。雌花の数などで明確に見分けることもできますが、やはりクロマツの方が雄々しく、アカマツの方が優しい感じがあります。

【万葉集より引用】これは平群女郎が大伴家持に送った歌です。
松の花 花数にしも 我が背子が 思へらなくに もとな咲きつつ
意味:松の花は花の数に含まれるのか、と貴方は思ってらっしゃるのでしょうか。でもわたくしは貴方を想ってしきりに咲き続けます。
花としては見るに足らない松の花を自分自身に例えて、大伴家持に厭味を送ったものですが、これは万葉人がマツの花をきちんと識別していた証であり彼等の自然観察力の高さが窺えます。

【万葉集より引用】これは大伴家持が紀女郎に送った歌です。
我妹子が 形見の合歓木は 花のみに 咲きてけだしく みにならじかも
意味: あなたの形見の合歓の木は、花だけ咲いて実は成らないかも知れません。(あなたの恋も口ばかりではないか。)

「合歓木(ねぶ)=ネムの木」」ですね。この頃はもう植物の名前もきちんと付いており、万葉人は植物それぞれの特徴を知っていて、見分けることができ、まさに分類学的な観点をも持っていたと言えるでしょう。ネムノキの花は美しく目立ちます、そして花の数も多いのですが実をつけるのは僅かです。このような特徴というのはよくよく観察していないと発見できないものです。

フィトンチッドと森の香り

一時期、「森林浴」というものが取沙汰されましたね。1980年にソ連のレニングラード大学教授トーキン博士が「植物が傷つくと、周囲の他の生き物を殺す何かの物質を放出する」という現象を発見しました。この物質はフィトンチッド(ギリシャ語:フィトン=植物、チッド=殺す)と呼ばれ、木を腐らせるような菌類や微生物を殺す役目があると言われています。この現象は、じつは私たちの生活にも古くから使われていたものなのです。
例えば笹餅、笹団子、柏餅は木の葉っぱで包みますが、これは切られた葉っぱにフィトンチッドが含まれているため殺菌作用があり、中の餅が腐りにくくなるわけで、経験的にこうした葉を使用してきたようです。また昔の結核療養所などが森林の中に建てられていたのも、フィトンチッドの効果を人間にもたらそうとしたと推測できます。
釈迦は菩提樹(クワ科)の下で法を説き、エホバは香柏(レバノンスギ)の祭壇にまつられ、孔子は楷(ナンバンハゼ)の木の下で道を説いたといわれています。すこし勘ぐり過ぎかも知れませんが、これらの木は香りが高くまたフィトンチッドを出す量も多いのです。フィトンチッドには、(菌類を殺す効果以外にも)人間の精神を安定させたり、脳の活性化や眼をカッと開かせるような働きがあります。私の眠くなるような話もこういう木の下でやったら、皆さん眼をカッと開いて聞いていただけるかもしれませんね。昔の人は(経験的に)このような性質を知っていて、木の下で自分の説をといたのかなという気がします。

フィトンチッドの正体

フィトンチッドの成分には、テルペン系の物質が非常に多いことが分かっています。例えばモノテルペンは380種もの植物中に見られますし、セスキテルペンは1000種、ジテルペンは650種の植物で確認されています。これらのテルペンには、滋養強壮や沈痛など多くの薬効があります。アカマツに含まれるテルペン類で最も多いのはアルファ・ピネンで、またスギからも多くのテルペン類が発散されているということが観測によって分かっています。テルペン類を発散する木がたくさんある森で森林浴をすれば、精神安定の効果が得られるということです。

心身症の自立訓練法における植物がもたらす効果

この自立訓練法は一種の自己催眠法のようなものですが、たとえば「指先が温かくなってきた」「気分が安らいできた」という自己催眠をかけて心身症(身体疾患の中で、その発症・経過に心理社会的な因子が関与するもの。精神疾患や精神病とは区別される)を治すものです。ここに一つの比較実験が行われました。自律訓練法を、クスノキの花の香りを匂ぎながら行うものと、単に訓練のみを行うものとに分けてそれぞれの効果を比べてみたのです。指先の温度については違いが見られませんでしたが、指先の脈の拍動は、クスノキの香りを匂ぎながら訓練を行ったときの方が波打って活力を持っているということが分かりました。
ストレスが蓄積されると、身体にいろいろな病態が現れます。現代の複雑な人間関係の中では、人は時々森林浴をしてフィトンチッドを吸い込むことが必要ではないでしょうか。

森林が人間の瞳孔に及ぼす効果

共立女子大生7人が、目の瞳孔の開き具合を観察しました。森林の中と、人工気候室(光、温度、湿度などを森林と同じ条件にした)の中で、それぞれ朝、昼、夜に瞳孔を観察しました。人工気候室では朝、昼は瞳孔の開きが悪く、夜になると急に開きました。一方森林では、朝昼夜とかわらず瞳孔はパチッと開かれ続けたのです。

木の岡ビオトープの貴重な自然を活かした地域づくり

「木の岡ビオトープ」は、大津市木の岡町、旧足洗川の河口(琵琶湖岸)にできた自然の林です。
 昭和45年(1970)の大阪万博開催を前に、この地にホテル(木の岡レイクサイドビル)の建設計画が持ち上がったのですが、建設途中で資金繰りがつかず、工事は中断されてホテルは廃墟となりました。昭和59年頃の写真では、辺りに木も茂ってきているのが分かります。平成4年(1992)にホテルは爆破して解体され、その様子はテレビで全国放映されました。
滋賀県はこの土地を買い取り、地元代表者による協議会や専門家による委員会を設け、この土地をどのように保全・利用していくかという整備方針を作ることにしました。最初、人を呼び込む施設を作ってほしいという意見が協議会から多く出たのですが、ビオトープ(ギリシャ語:bios生物、topos場所)整備が決まってからは、逆にこの地元協議会の方々が一生懸命になって環境保全活動に協力してくれました。以降、専門家との協働のもとで、地元の任意団体「おにぐるみの学校(平成18年)」はビオトープの保全・利用を進めています。
現在、木の岡ビオトープ内には柳やオニグルミが自生し、アオサギ、ドジョウ、タヌキなども見られます。保全活動や環境学習、イベントの開催も行っており、毎年、下阪本小学校の2年生が訪ねてくれています。地元協議会の人たちが中心となってお世話をしてくださり、子供たちも楽しんで観察をしています。
以上です、ありがとうございました。

◆木の岡ビオトープの見学会

小林氏の案内のもと、現地「木の岡ビオトープ」にて観察会を行いました。
植物が鬱蒼と茂るビオトープへ足を踏みいれ、講演にもでてきたオニグルミや、柳、旧足洗川などを実際に見てまわりました。鳥の鳴き声が始終聞こえ、丸々と太った昆虫がたくさん見つかりました。途中小林氏が野生の「フユイチゴ」を見つけ、参加者に配る場面もありました。

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