大津歴まち百科 第1回ワークショップ
「歴史都市大津のまちづくり―琵琶湖疏水とその時代」

  • 第1部講師:宗田好史(京都府立大学大学院 教授)
  • 第2部講師:横谷賢一郎(大津市歴史博物館 学芸員)
  • 2015年9月6日(日)13:00〜15:30
  • 元・正蔵坊(登録有形文化財;滋賀県大津市小関町3-10)

◆歴まち大津の未来を考える会・会長(福家俊彦)挨拶

image002歴史、文化遺産、琵琶湖を抱える浜大津・旧大津を中心としたまちづくりを考える会をしております。培われてきた歴史・文化をどのようにまとめ、未来につなげていくかということが当会の設立趣旨です。現在の大津市では、他地域からの移住者の比率が上がっており、昔のような「自治会=地元の声」ではなくなりつつあります。古くからの住民と、移住者の双方が話し合って大津のまちの未来を考えていきたいです。

今後、京都市と大津市の協力の元、琵琶湖疏水の通船復活計画が展開していく見込みです。そこで本日は、宗田先生と横谷先生から琵琶湖疏水についてご講演頂き、今後のまちづくりに活かす方法を探っていきたいと考えております。「大津」は、歴史や文化財の数からいっても誇れるまちですが、まだまだ全国的には知られておりません。まずは住んでいる者として大津市のことを知り、発信していきたいと思います。

第1回目は、琵琶湖疏水について学びましょう。

◆第1部 宗田好史(京都府立大学大学院教授)氏による講演

司会 宗田先生は、京都やイタリアなどの歴史的な都市のまちづくりと、都市計画をテーマに研究をされています。今回は、歴史都市大津のまちづくりについてお話し頂きます。

宗田

image004大学では都市計画学を教えています。「歴史まちづくり研究」は、昨今の学界では中核的なテーマです。

ヨーロッパの都市計画を研究しますと、西ヨーロッパの国々では1970年頃から人口減少が起こっています。その中で「歴史まちづくり」や「観光」、「市街地をコンパクトにする」などのキーワードに注目が集まっています。単に文化財や町並みの保存、町家の再生ということにとどまらず、都市計画の大きな流れの中で歴史まちづくりが位置づけられています。

大津の歴史まちづくりの課題について

大津京は諸説ありますが、「近江の宮」などの呼称もあり、平安京以前に都が置かれた場所とされています。しかしあまりに昔のことで、現在の大津市民が大津京に思いをはせるのは難しいものです。もう少し身近に感じられる歴史としては、大津は平安京に隣接しており、琵琶湖に面するまちで、三井寺、石山寺、比叡山坂本などの文化遺産が集中しているということです。大津・膳所には、数々の戦乱と商業集積により営まれた城下町としての町並みが残り、浜大津地区には古典文学にも登場する三井寺もあれば、明治期に創設された琵琶湖疏水もあります。

しかし、これら時代背景や分野がバラバラなものを、どのように認識し、今後の大津の歴史まちづくりに活かしていけば良いか。これが大きな課題となっているのです。

古都保存法と大津市

1966年に古都保存法が制定されました。鎌倉の鶴岡八幡宮の裏山を守るためにできた法律で、古都周辺の山々を守るのが大きな目的です。特別保存地区に指定されると、その地域に建物を建てようとした際に国が「まった」をかけ、土地を買上げて維持管理を行います。

京都市では、45年前からこの法律を適用しており、これまでに2万8千ヘクタールが市有地化されました。この広大な土地は市では管理しきれないため、建設局が管理しています。例えば、送り火で知られる妙法の山では、木々が生えすぎないよう手入れをしています。下鴨から宝ケ池周辺の地域は、「風致地区」「歴史的風土特別保存地区」として守られており、風景は百年たっても変わりません。このように風景の保存を厳しく守っているのが古都保存法です。

大津市は2003年に古都保存法に登録され、2004年に歴史的風土特別保存地区が定められました。特別保存地区だけで505ヘクタールありますが、私としては、もっと広げていくべきだと思います。

大津の歴史まちづくりの最大の課題

大津市の特徴の一つに、交通の利便性が高いことが挙げられます。戦後、山岳部の住宅地開拓が進み、市街地では超高層ビルがたくさん建てられました。特に1970年〜80年代は新しい住宅、工場を作ることが大津市の都市計画の中心でした。しかしそのことが、大津の歴史都市という側面を忘れさせてしまったのです。2004年から古都保存法の適用が始まりましたが、大津市の都市計画の中に「歴史都市」としての側面は位置付けられていませんでした。

人口減少の中で大きな転換期を迎えた大津市

昨秋、大津市もついに人口減少に転じました。滋賀県全体の人口も昨年の早い時期に減少に転じています。滋賀県庁も大津市も、このことに強い危機感を持っています。また大津市北部のニュータウンには、建設会社やURなどが買った土地が開発されずに森のまま残っています。それらをナショナルトラストに譲り渡すとか、市街化調整区域に戻すなどの話が進んでいます。今はまちを山に戻す「保存」に大きく転換する時期に入ったのです。

人口・土地の大きな転換期に、私は都市計画マスタープランの作成委員長を務めており、歴史まちづくりを強く訴えた都市計画マスタープランを目指しています。新しい法律制度である景観法(2004年)や歴史まちづくり法(2007年)、日本遺産制度(2015年)にのっとった保存方法を目指しています。古くから三井寺や石山寺など大津市の寺院は、国による古社寺保存法(1897年)をはじめとする法律で守られてきました。また文化財保護法(1950年)の中の伝統的建造物群保存地区(1975年)、登録文化財制度(1996年)なども適用されています。

歴史まちづくりプランを考えよう

文化財保護法を一歩進めた「文化財基本構想」というものがあります。ここでは、複数の無形・有形文化財を総合的に一つにまとめて各市町村で核となるコンセプトを作っています。大津市ではどんな歴史まちづくりをしたいか、ぜひみなさんでも議論してみてください。

大津京(飛鳥時代)は古都保存法で守られていますが、平安・室町・戦国・江戸・明治時代のものは古都保存法の適用外です。ですから大津市の歴史を総合的にまとめた一つのコンセプトが必要になります。現在、文化庁は歴史文化基本構想を進めています。これから景観法や歴史まちづくり法の歴史風致向上計画のコンセプトが決まっていきます。大津市はすでに、実効性は低いですが、景観計画を持っています。

他の地域での景観計画

近江八幡市では、大津市と比べると非常に厳しい景観形成基準を作り、ガイドラインを定めて建物の形を決めています。京都市では、2007年に新しい景観政策をスタートさせました。全ての屋上広告を取り除き、全ての建物に斜めに屋根をかけさせ、1階と2階部分には必ず瓦をのせて軒をつけさせました。2007年以降、都心のマンションだけで1200棟建っており、目にみえて町並みのデザインが良くなっています。このように景観計画を実行する近江八幡市と京都市に挟まれて、大津市では何もしなくても良いのでしょうか。

さらに重要な景観計画として「高さ規制」が考えられます。京都市では御池通、烏丸通、堀川通で元々の高さ規制が45メートルだったものを31メートルに、三条通、都大路通など町家が並んでいるところは31メートルだったものを15メートルに規制し直しました。横須賀市では、まちづくりのコンセプトを「町なかから海が見える」と定めました。丘から海にかけて勾配のある高さ規制を設け、段々と下げてきて、海岸に隣接する地区では建物の高さが23メートルと定められています。また横須賀市には江戸時代末期に幕府が最初に造った造船所もあります。先日指定された九州・山口の産業革命遺産と同時期のものですが、治外法権のアメリカ海軍基地内にあるため指定されませんでした。但し、ハーグ条約では、戦争から文化遺産を守るという条約があるため、横須賀市のアメリカ海軍基地ではハーグ条約担当将校によって日本の文化遺産が守られています。また広島県尾道市でも、景観地区を指定し、内陸部から海が見えるように坂のある町並みを大切にしています。眺めの良いところにはアーティストなど若者が住みだし、おしゃれな飲食店やブティックが出来て、映画や小説の舞台にもなり、広島県の中では有数の観光地となっています。

大津市の場合も、私は湖岸の建物は15メートルに規制すべきだと考えます。湖岸から離れたエリアでは20メートル、30メートルと(徐々に)規制をやわらげてはどうでしょう。「琵琶湖から近くても遠くても多くの住民が等しく湖を見ることができる」というのが大津市の進めるべき都市計画だと思います。土地が高く売れるからといって高層建築を建てようというのではいけません。

歴史まちづくり法

大津市では景観計画は作ったので、次は歴史まちづくり計画です。歴史まちづくり法による歴史風致維持向上計画ができると、国の補助金がたくさんおりてきます。飴と鞭でいうと、景観法は鞭に当たります。規制をかけて建物を建てさせない法律です。一方、歴史まちづくり法は飴です。お城や周辺の整備、無形の祭りを守る活動を援助すると補助金が出ます。すでに京都市、彦根市、長浜市、近江八幡市などは歴史まちづくり計画を作っています。

日本遺産に登録された大津市の「祈りと暮らしの水遺産」

2015年に制定された日本遺産制度では、コンセプトを大事にした歴史まちづくりが推奨されています。大津市は「琵琶湖と水辺景観 —祈りと暮らしの水遺産」として日本遺産に登録されました。

穢れを除き、病を癒すものとして祀られてきた水。仏教の普及で、東方に瑠璃色に輝く「水の浄土」の救主・薬師如来が広く信仰された。琵琶湖では「水の浄土」を臨んで多くの寺社が建立され、多くの人々を惹きつけた。暮らしでも、山水を引いた古式水道や湧き水を上手に使う習慣が残る。湖辺の集落や湖中の島では、鮒鮨等、独自の食文化やエリ漁法が育まれた。多様な生物を育む水郷とその景観は、芸術や庭園に取り上げられた文化的景観、日本の代表的「水の文化」。

昔から、琵琶湖は祈りの対象とされてきました。水があるから信仰が生まれ、寺ができ、暮らしにも水文化が根付きました。この水への信仰は、大津の民のみならず平安京の人々の中にもあったものです。現在も華々しく行われている京都祇園祭は疫病退散の目的で始まった祭りです。琵琶湖疏水を繋ぐことで衛生的な水を運ぶことができるようになり、京都市内の衛生状態は改善されました。

日本の近代における琵琶湖疏水の意味

琵琶湖疏水によって、浄水の他にも電力の供給がされました。京都では市電(京都電気鉄道)が通り、機械工業が発展、科学技術の進歩に大きく寄与しました。琵琶湖疏水で日本の土木技術は大きく発展し、京都と大津は明治期に産業都市として発展しました。

琵琶湖疏水の建設略史

1889年第一疏水工事完成の直前、京都商工会議所の田辺朔郎、高木文平が米国アスペンに視察旅行に行きます。1泊2日と日程がタイトな中、さまざまなものを見学していることから、高い学力があったことが伺えます。この視察旅行を通じて、疏水を作るなら水力発電をしなければ駄目だと気付きます。一般の人は疏水を作るなら船で物資を運べばいいだろうと考えますが、田辺らはそれが鉄道にすぐ負けると分かっていたのです。建築分野では計画学の視点から20年、30年、50年先を見ます。彼らも世界の流れを知り、水運ではないと気づき、短い期間で頭を切り替えて蹴上げに発電所と電鉄を造ったことはのちに大きな効果を生みました。

田辺朔郎の生家は洋式砲術家です。工部大学校(現・東大工学部)第5期生として入学し、後には教鞭も取ります。同期の渡辺嘉一は、イギリスで橋を架けてポンド札に顔が掲載されている人物です。明治維新の技術革新が田辺を工部大学校に導いたようです。この時代、ごく一部の人たちはヨーロッパ・アメリカの技術に非常に高い関心を持っていました。

幕末・明治維新の留学生

1863年、長州ファイブ(伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三)がイギリスに留学します。その中で山尾はイギリスのグラスゴーに残ります。グラバー商会、マセソン社(グラバー、マセソンはいずれもスコットランド出身)の影響で、ロンドンからエジンバラへ行き、後にエジンバラから工部大学校の先生たちを呼んでくることになります。この時、工部大学校のお雇い外国人ヘンリダイアは、鉱山技術、トンネル技術、電気技術などを伝授し、日本の優秀な人材育成に寄与しました。

さて、田辺朔郎は工部大学校でイギリス人の先生から最新のトンネル技術について学びました。卒業論文ではトンネル技術とその実践編として琵琶湖疏水の計画案をまとめます。琵琶湖疏水の実践後は京都帝大、東京帝大に奉職しました。彼のご子息は国鉄に務め、東北、北海道などの橋やトンネルの建設に携わり、田辺家は日本の鉄道・土木技術の発展に貢献しました。

産業革命

長州ファイブがイギリスのグラスゴーやエジンバラに留学した理由は、世界で起きていた産業革命を学ぶことにありました。「産業革命」はイギリスの経済学者トインビーが唱えた説で、それ以前にはマルクスが資本論の中で使いました。幕末の、ペリー来航や明治維新の背景にあった世界の潮流です。この革命により機械・土木技術が大きく進歩しました。土木技術は鉄とコンクリートと工学的力学をうまく使い、安いコストで大きな構造物を造ることを目指します。土木を支えるのは、機械・金属・製鉄工業です。産業革命により引き起こされたエネルギー革命は構造基幹の発展に大きく寄与しました。日本人留学生たちは海外でこれらを学び、短期間で日本へ導入します。

産業革命には、ニューコメンの蒸気機関を用いた排水ポンプ、ジョン・ケイの飛び杼などがあります。イギリスにある世界遺産の半分は産業革命遺産です。1960年代にイギリスの産業構造は大転換したため、今では衰退した場所も多いのですが、過疎地域となったダーウェント渓谷にはアークライトにより初めて水力紡績機が作られた工場が残っています。世界文化遺産に登録されたとはいえ、資金はないので地域住民の方々が守る会を結成し、施設管理や案内をされています。ここに架けられたアイアンブリッジは世界初の鉄橋であり、非常に重要な場所なのです。

欧米諸国で蒸気機関から紡績産業が伸びるまでの間、日本は鎖国時代にありました。そのため、黒船(蒸気船)の日本来航は、「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四盃で夜も寝られず」と詠われるほどの驚きをもって迎えられたのです。

第2次産業革命

19世紀中頃から後半にかけて日本の留学生たちがイギリス、フランス、アメリカの現場で学びました。日本はこの頃から急速に世界に追随していきます。イギリスで蒸気機関が高度に発達し、炭坑を掘る技術が発展すれば、それを日本にそのまま持ってきたし、フランスのエンジン、ドイツの自動車もしかりです。お雇外国人も招聘しました。19世紀末(明治20〜30年)、琵琶湖疏水が出来た頃にはほぼ世界に追いつきました。1876年にベルが電話を発明、1880年にはエジソンが発電機を発明します。82年に最初の発電所が造られると、同じ年に日本でもアーク灯が点灯します。83年にベルリンで路面電車が走ると、91年には蹴上発電所で送電が始まり、95年には京都電気鉄道が路面電車を走らせ、同年、第4回内国勧業博覧会が開催されます。追いつけ追い越せの中心事業は琵琶湖疏水でした。東京・横浜も重要ですが、京都・大津間で19世紀末から20世紀初頭にかけて非常に大きな産業革命の流れがありました。日本では産業革命遺産というと九州・山口のイメージが強いですが、琵琶湖疏水もまた重要な産業革命遺産です。

大津京、平安京、エジプトのピラミッドなど古い遺産は大事ですが、我々の生活とはあまり関係がなく、今のまちの歴史を考える時に活かしようがない。しかし産業革命遺産は、現代における我々の生活様式を決める根幹です。京都は歴史文化都市であると同時に産業都市です。そのことを無視して現在の生活はありえません。

グローバルな歴史の中の琵琶湖疏水

琵琶湖疏水が提供した新エネルギー・電力のおかげで最も発展したのはジャガード織りです。西陣からは3人の職工がフランス・リヨンに渡りジャカールが発明した自動織機を日本に持ち帰りました。リヨンの織物博物館には、日本の技術者が学びにきたという記録が残っています。同じ時期にイタリア人も学びに来ていて「イタリア人は盗んで行った。日本人は勉強して行った」と記されています。当時、日本はライバルとは見られず、遠方からわざわざ学びに来たと見られたようです。

また、京都に本社を置く村田製作所は、京都で初めて作られた織機から発展した企業です。今では自転車や一輪車に乗るロボットを開発するまでになっています。他にも、京都には清水焼があります。ここから発展した企業は松風工業です。鹿児島大学出身で松風工業に入社したのが稲森和夫さんで、ここから京セラを起業されました。

彦根や長浜、京都が産地の仏壇からも世界的な企業・技術が生まれています。島津製作所の創業者島津源蔵は京都の仏壇屋に生まれ育ち、舎密局で学びます。島津氏は仏壇屋で箱ものを作るのが得意な上に、舎密局で学んだ機械と電気の技術を融合させて実験道具を作るようになります。ある時、第三高等学校(現・京都大学)物理の渡辺先生が、ドイツの友達から送られて来た論文に書かれている実験を行うために島津氏に実験道具の製作を依頼します。この論文を送ったのはフンボルト大学物理学教授です。彼はストラスブールの物理学研究室で助手だった時代に知己を得た日本人留学生と、交流を30年間続けていたのです。この時、島津源蔵が作った実験道具は日本初のレントゲン撮影機です。これは結核の検診に使われました。そして現在ではMRI技術に発展しています。レントゲンはノーベル物理学賞の第一号受賞者(1901年)です。それから101年後に島津製作所の田中耕一さんがノーベル科学賞を受賞されます(2002年)。レントゲンを実現した島津源蔵が亡くなって、51年目の年でした。

このように、琵琶湖疏水が繋いだものは京都と大津のみならず、日本の伝統産業を世界の先進技術に繋ぎ、今日に至る技術立国の礎を築きました。

ナショナルトラスト

大津は天智天皇が遷都した近江大津宮のほか、平安仏教、鎌倉新仏教の文化の中心地として栄えました。この文化遺産は市民の手で守ることができます。

「ナショナルトラスト」はイギリス発祥の活動で、美しい風景を守る取り組みをしています。本土で3千人を超すメンバーがいて、海岸線だけで700キロ、120の邸宅を持ちます。『ピーターラビット』の湖水地帯などもここで守られています。

日本にもいくつか活動団体があります。その一つが公益社団法人日本ナショナル・トラスト協会です。1983年スタートし、1992年社団法人化されました。大津市伊香立の土地をURから引き取り、市民の森として守る活動が起こりそうです。地元には公的な団体に譲ると説明をしている段階ですが、ほぼ確定です。このように大津市の北部は風致地区、歴史的保存地区に匹敵する美しい自然の森を市民の力で守る流れが起こっています。

人口減少と仕事のあり方

2014年10月「まち・ひと・しごと創生法」が制定されました。人口減少の中で、人や仕事、まちのあり方をどうするかを説明しています。

日本の人口は1990年代をピークに急速に減少に転じています。2060年には推定人口8600万人になるとされています。内訳をみると年少人口(15歳未満)は1955年をピークに減少へ転じ、生産年齢人口(15才以上65才未満)は1995年をピークに過去20年にわたって下がり続けています。あと10〜15年で高齢人口も下がりだし、第3次過疎化が始まります。現在は第2次過疎化で生産年齢人口が減少しています。一時的には社会保障を支える働き手が少なくなり、高齢者が増えます。1人の若者が1人の年寄りを支える状況になるといわれます。働き手が減り製造業が苦しくなり、地域経済も失速します。各人の稼ぎを確保するには、高度なサービス業を作り出すことが大事です。

文化遺産を増やせば観光客が増えるのか?

私は増えないと考えます。観光庁が作ったデータから、世界遺産に登録された日本の主要な自治体の観光客の変化を、登録年を基準として増減を確認しました。一番増えたのは京都、次いで奈良です。それ以外は(登録から数年が経過すると)0%から下がっています。世界遺産に登録したから観光客が増えるということはありません。

なぜ京都と奈良だけ増えるのか

夕張市を見てみましょう。夕張市は炭坑が閉鎖されて経済が衰退しました。そこで観光客を呼び込もうと遊園地や博物館などを作りましたが経済が崩れました。観光客が増えてもその財政効果が出るには時間がかかります。観光客相手の商売人が売り上げを延ばすことで、別の事業者が集まり投資が起こり、事業税収入と固定資産収入が増え、所得が上がれば、ようやく市民税収入も上がります。

つまり、観光投資をするなら何年で回収できるかが鍵になります。京都のように年間5,500万人の観光客が来る地域は特別です。京都の産寧坂へは年間約2000万円の助成金を出しています。観光客で事業税がバンバン入ってきて地価は上がるので2000万円を投資してもほぼ1年で回収できます。そのような環境なくして資金投入をしても効果はありません。これが観光財政です。

地方創生の流れを生むには

まずは、町並み整備の経済効果を生むことが大事です。彦根、長浜は上手くいっている事例です。町並みを整備することで事業者が増え、若年人口が集まると地方創生に繋がります。

大津の歴史まちづくりは、文化財を大事にするのはもちろんですが、人口減少で厳しい財政の中、大津市民の公共サービスを劣化させることなく、観光サービスにも従事していくことです。上手に地域経済と合わせて考える必要があります。

まちづくりフォーラム(「大津市都市計画マスタープランまちづくりフォーラム」)を10月17、18日に開催します。マスタープランをもとに、市長も参加されて意見交換を行います。参加者のみなさんからも質問や発言を募る予定です。

長くなりましたが、これで終わります。ありがとうございました。

◆第2部 横谷賢一郎(大津市歴史博物館学芸員)氏による講演

横谷

image006先ほど、宗田先生の話に出ました湖岸の高層マンションに住んでいます。非常に景色が良くて大津の魅力を満喫できる場所です。埋め立て地に建っているのですが、新しい埋め立て地などは高層マンションにして、歴史的な地域は景観を守るなど使い分けをしてみてはどうでしょう。

旅籠(屋)のある風景 (スライド『木曽海道六拾九次之内 大津』)

京阪電車で浜大津から出発して上栄方面に向かうと、上栄町の上手で坂の下に琵琶湖が臨める美しい風景が広がっています。旅籠が並び均整のとれた遠近法の世界を作り出しています。

かつての大津は素晴らしい景観を持つ宿場町でした。東海道五十三次の中で大津は人口第1位の宿場町です。延宝年間で人口1万8000人、第2番目の府中(静岡市)の人口1万人と比べても並外れて多い。港湾都市であり三井寺の門前町でもあり、米問屋なども建ち並ぶ取引所としても重要な拠点でした。そのため宿場の数も並外れて多く、天保14年の国勢調査では71軒の旅籠があると記録されています。

歌川広重と大津

江戸時代の浮世絵師・歌川広重は、大津は全国の宿場の中でもきわめて優れた景観を持つと認識していたようで、作品で確認できる限りでは人生で4回大津を訪れています。たくさんのスケッチを残し、近江八景を含めると60種類以上の作品に大津を描いています。

『近江八景三井の晩鐘』歌川広重作

明治時代になると陸軍の愚連隊がやってきたり、大津のまちは様変わりしますが、それ以前は、田園が広がり秋には藁積みのある牧歌的な景観の中、日本三名鐘の一つ三井寺の晩鐘が鳴っていました。先ほどの旅籠街とはまた対照的で、この時代には情緒的な良さがありました。

三井寺観音堂

観音堂からの眺めは、広重が作品に取り上げてから知られるようになった名勝です。当時は巡礼地として認識されており、レイクビューの素晴らしさについては無名でした。広重以外ではほとんど絵画の素材にはされていませんでした。広重が作品で紹介したことで海外にも知られ、海外向けの絵はがきの中で大津の代表として観音堂からのレイクビューが描かれています。

『五十三次名所図絵 大津』歌川広重作

三井寺を桜とともに描いています。現在では三井寺は桜の名所として有名で、ソメイヨシノが咲きます。広重の時代、三井寺の桜はヤマザクラです。現在とは異なる種類の桜が占めていました。

『東海道五十三次之内 大津(行書東海道)』歌川広重作

(描かれている辺りは)現在は湖岸に渚のテラスがあり、イタリアン、スイーツ系カフェなどの飲食店が並んでいます。当時の船着き場には、フナズシの店が並んでおり、旅人は「これが琵琶湖の名物か」と急ぐ旅路にも関わらず、足を止めたようです。18世紀頃からフナズシは近江の名物として知られていました。画中の看板にも「お酒、肴、名物ゲンゴロウブナ。お支度」とあります。ぜひ現在の渚のテラスにも、付加価値・差別化を図るためにも近江の酒とフナズシをサービスする店を追加オープンしてほしいです。

琵琶湖疏水の登場

食、商業地、巡礼地、景勝地として大津は三拍子も四拍子も揃った素晴らしいまちでした。その大津に、突如登場したのが琵琶湖疏水です。

琵琶湖疏水の計画は、古くは1829年江戸時代後期からありました。今のルートとはかなり違います。文久3年(1863)の計画では、北から山をくりぬいて通す計画が何度か試みられたようです。安祥寺川などを利用しながら、川を繋ぎ運河を掘削して京都まで通水させるというものでした。

琵琶湖疏水建設計画の当初、京都府は福島県の安積疏水を設計した法務省の技師に注目していたようですが、それだと法務省主導の疏水工事になってしまうということで、手あかのついていない気鋭の学生田辺朔郎が抜擢されたようです。琵琶湖疏水の工事には、近代の黎明期にイギリスなどに留学した若者たちが参加し、正確な測量に基づいて行われました。大津と三条大橋付近の地盤の高低差は40メートル。この高低差をそのまま利用すると、京都へ勢いのある水が流れてしまい氾濫する恐れがありました。ゆるやかに流れる微妙な高低差を実現すべく、最先端の高度な土木技術が駆使されたのが琵琶湖疏水なのです。完成した琵琶湖疏水の高低差は1.5メートルといわれています。また、琵琶湖側の取水口の位置は、非常に入念に決められました。それまでの記録から渇水時と増水時の琵琶湖の湖面の高さを確認し、最も渇水した時期、明治19年の大渇水時の湖面よりも約30センチ低いところを起点として、1.5メートルの高低差で京都まで11.7キロメートルの道程をゆっくりと流れていくように掘られました。

パナマ運河は水位を調整するために水を溜める施設を付けています。琵琶湖では、南郷洗堰の水位の調整がまだ上手く機能していないない時期でしたが、琵琶湖疏水に一定量の水を流すために一時的に貯水していました。(スライドは)通船のために必要とされた閘門です。当時は人力でこの鉄のゲートを開閉していました。現在は閘門で水がせき止められている様子は見ることがありません。大津と京都の通船が復活する際には、ぜひ閘門もデモンストレーションで動かしてはいかがでしょう。

また琵琶湖疏水の工事記録によると、築堤工事だけでものべ20万4872人の人力を投入しています。ほかにも、残土は7万立方メートル、東京ドーム容積の3分の1ほどの量になります。残土を搬出するのも人力でした。絶え間なく残土を運び、捨て、隧道(トンネル)の掘削地まで往復しました。

琵琶湖疏水の隧道(トンネル)工事

疏水のトンネル工事では、江戸時代の金山・銀山を掘るように杭で小屋を組んで板を回し、崩れないように確保して、発破をかけて掘り進みます。環境が悪く、酸素濃度も低く酸欠に近い状況になります。田んぼのふみ車(水車)を送風機に応用して、人力で新鮮な外の空気を送り込みました。トンネルの掘削工事は、1日に1.5メートルしか進まなかったといわれています。

両端からのみ掘り進めていくのでは時間がかかるので、数カ所に昇降機を取り付けてそこからも土砂を運び出しました。小関越えで標高が低いところと、川が流れて低いところに昇降機用の「竪坑」を掘り、東と西両方からも同時に掘り進めました。距離が短いところは約1年4ヶ月で開通しました。長かった第1隧道東口からの掘削も、明治22年2月、遅れること約8ヶ月で開通しています。恐るべき精度で、開通時の中心線の誤差は0.6センチだったようです。あまりにピッタリだったので、野球のボールほどの大きさで穴が繋がったといわれています。

明治の日本人の勤勉さ、実行能力には驚嘆します。現在の技術とも引けを取りません。人力で完遂した琵琶湖疏水は、近代産業遺産の金字塔といえるでしょう。

現在、隧道付近は樹木が生い茂り、桜の名所として知られています。柵がされていますが、日本の近代化を象徴する土木工事の史跡として「親水エリア」などにしてはどうでしょう。

田辺朔郎の碑

人力で行われた疏水工事の労働は、現在からすると非常に過酷なものだったと推測されます。琵琶湖疏水はこのような名もなき人々の労苦と犠牲のもとに完成された側面もあります。工事で亡くなった犠牲者を忍び、田辺朔郎はのちに私費で慰霊碑を建てています。

碑文「一身殉事萬戸霑恩(一身ことに殉ずるは万戸恩にうるおい)」

命を殉じて工事に従事してくれた人々がいてくれたお陰で、万という住戸が恩恵を被ることになれた。この碑から、彼自身も心を痛めながら疏水工事を完遂したことが伺えます。

洞門に寄せられた「扁額」

山縣有朋 筆/「廓其有容(かくとして其れ容るることあり)」

伊藤博文 筆/「氣象萬千(きしょうばんせん)」

井上馨 筆/「仁似山悦智為水歓(仁は山をもって悦び、智は水をもってなるを歓ぶ)」

松方正義 筆/「過雨看松色(過雨、しょうしょくを看る)」

西郷従道 筆/「隨山到水源(山にしたがい水源にいたる)」

こういった明治の元勲による扁額からも、琵琶湖疏水工事は単なる土木工事ではなく国の威信を背負った事業だったことが分かります。

質疑応答

Q.Tさん
琵琶湖疏水には煉瓦がたくさん使われていますが滋賀県産ですか?

A. 煉瓦工場は2カ所ありました。藤尾と地下鉄東西線「御陵駅」の付近です。山科産と大津産の煉瓦が使われていました。
(スライド「御陵駅北川にあった煉瓦工場」「煉瓦巻き」「藤尾の煉瓦工場」「通船」などのスケッチ)
煙突・窯が4つ描かれています。近場の陶土が取れる山から採掘した土で素焼きをしていたと思います。
トロッコなどで煉瓦を運び込んでは、煉瓦巻きをしていました。
疏水の水流は一方通行なので、琵琶湖側に行く時は曳船をして船を運んでいました。

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