大津歴まち百科 第4回ワークショップ
「大津京と、比叡山と長等山の神仏」

  • 講師:寺島典人(大津市歴史博物館 学芸員)
  • 内容:講演/秘佛善光寺式阿弥陀如来像ほかの見学(三井寺別所 近松寺)
  • 2015年12月5日(土)10:30〜12:30
  • 元・正蔵坊(登録有形文化財;滋賀県大津市小関町3-10)

◆概要

湖西南部にそびえる比叡山と長等山は、その秀麗な姿から、古来より霊験あらたかな山として知られていました。特に672年には天智天皇によって大津京(近江大津宮)が造営されると、両山の山上や麓には崇福寺や園城寺前身寺院といった寺院や、日吉大社などの神社が創建され、この周辺は一大宗教都市を呈するようになります。さらに788年には、伝教大師最澄によって延暦寺が開創され、そして智証大師円珍が園城寺を中興したことにより、ますます神仏があふれる土地となり、いまなお多くの仏像や神像が伝来しています。
今回は大津京時代の仏教・神道政策とその後の影響を中心に、大津の寺院や仏像について考えてみたいと思います。

◆歴まち大津の未来を考える会・会長(福家俊彦)挨拶

今年は文化庁の補助金を頂いて、このような色々な会を開かせて頂いております。今回は4回目でして、「大津京と、比叡山と長等山の神仏」というテーマで、大津では一番詳しい寺島先生にお越し頂きまして、内容の濃いお話をして頂こうかなと思っております。
かつて三井寺の山上に「微妙寺」という三井寺別所がありました。そしてそれを守る役目の五坊という5つの坊が存在したわけですが、そのうち4つは既に無くなってしまい、今日まで残るのはここ「正蔵坊」のみとなっています。今は橋本さんという方がお守をしてくださっていて、「ながらの座・座」という会を開き、今回のようなワークショップですとか音楽会などに活用して頂いております。
今日はご講演が終わりましたら、これも三井寺別所の一つですが「近松寺(高観音)」というお寺にみなさんで見学に行く予定をしております。近松寺御本尊は本堂にございまして、千手観音と二十八部衆ですけれども、その隣にあります阿弥陀堂には善光寺の仏様が安置されております。普段はお盆の数日間のみですが、今日はいい機会ですので、これら秘佛の特別公開ということでお扉開けさせてもらおうかなと思っておるところでございます。

◆寺島典人(大津市歴史博物館学芸員)氏による講演

→北海道札幌市生まれ。大津市歴史博物館にて彫刻史、仏教・神道美術を主に研究。最近は、仏師快慶の工房制作に興味。

寺島
はじめに

大津市歴史博物館では、11月23日まで「比叡山」というタイトルで展覧会を、また去年は三井寺の仏像の展覧会を開催していました。大津にある二つの大きな寺、延暦寺と三井寺との関係を考えている内に、「大津京」というのが一つのキーワードになるんじゃないかと思い、しかし未だぐだぐだと考えている最中でもあります。ですので今日、特に結論めいたものは無く、皆さんもやもやしたまま帰られると思いますが、それは今後の宿題にしていただければと思います。

地図に見る比叡山、長等山、大津京

延暦寺と三井寺との関係を、「比叡山と長等山の神仏」という形で考えてみました。皆さんあまり「位置関係」というものを意識したことは無いと思いますので、まずはこの大きな地図を見ていこうと思います。
【大津市内(長等山〜比叡山にかけて)の地図】南の方に「長等山」と書いてありますね。その長等山の東側に「光浄院庭園」(三井寺子院)とあり、そこから南へ行くと「小関町」と書いてあります。今、この辺りに私たちが居ます。そしてそこから少し東へ行くと「高観音」とありますが、これがこのあと見学に行く所ですね。では、元に戻って頂いて、長等山から北上すると「千石岩」があります。さらに北には「崇福寺跡」、そのさらに北には「ケーブル延暦寺駅」、西に行くと「四明岳」(比叡山を構成する片峰)とあります。簡単にいうと、長等山の真北に比叡山がある、ということですね。
さらに、今回のキーワードである「大津京」を探してみましょう。
また長等山に戻りましょう。長等山から東へ行くと「光浄院庭園」、「文化会館」(大津市歴史博物館の旧名)がありますが、その東側に、京阪の線路に沿うような道がありますね(県道47号)。これは古代から在るとてもとても古い道で、「大津京のメインストリートかも知れない」といわれています。この道を北上し、「体育館」を越えると「錦織」という地名が見えてきます。傍に「大津宮錦織遺跡」と書いてありますが、この辺りが「大津京のど真ん中かな」と言われています。この大津京を北上すると「神宮町」とあり、傍には「近江神宮」という比較的新しい神社がありますが、これは大津京(推定範囲)の北面に隣接して建てられています。神宮町から北に行くと「南滋賀廃寺跡」とあり、さらにずうっと北上すると京阪の「穴太駅」、その傍に「穴太廃寺跡」があります。ここは近江の国で一番古いお寺の跡で、飛鳥時代のお寺でした。さらに北上すると「坂本」があり、西側には「日吉大社」があります。日吉大社は全国にある日吉神社、比叡神社の総本部です。
肝心の「三井寺」を確認していませんでしたね。長等山に戻って頂くと、その東側に「三井寺」とありますが、長等山の東側一帯が三井寺だと思って頂いて大丈夫です。
【図説 大津の歴史 に掲載の地図】これはさっきの地図を簡略化したような地図ですが、これを見てみると真ん中に「大津宮 錦織」とありますね。その南側に「園城寺遺跡」すなわち園城寺前身寺院が、北側に「南滋賀廃寺」があります。大津京を挟んで、北と南にお寺が在る(在った)ということです。
大津京をさらに真北へのぼって行くと「壺笠山」があり、壺笠山の真北にあるのが比叡山です。今まであまり言及されてきませんでしたが、「比叡山は大津京の真北に位置する山」です。これはとても重要で、つまり「比叡山というのは大津京を北から守る山なのではないか」と私は考えています。そして、「南滋賀廃寺」の北東には「唐崎」があります。この唐崎、結論からいうとここは大津京時代の港でした。今は唐崎神社が在ったり近江八景「唐崎の松」などで有名ですが、「大津京の港である」ということは大変重要なポイントとなります。
ここからは、皆さん大体の位置関係が頭に入ったうえで、お話をさせて頂きます。比叡山と長等山の周辺、大津京に関わるお寺や神社を見ながら、大津の昔の様子を感じてみたいと思います。

日本の仏像(塑像と塼仏)

申し遅れましたが、私は「仏像」の専門家です。今日はお寺など宗教的な話が多く出てきますが、本来は仏像そのものを専門としております。そこで、基礎知識として仏像の作り方を少しご説明しておきます。
先ず、仏像は物体ですので、いろいろいな素材があります。日本で一番多いのは「木」で、9割9分9厘が「木像」です。これは日本だけに見られる特徴で、中国も韓国も、東南アジアでも木像はほとんどありません。日本の仏像で木の次に多いのは、金属を使った仏像で、なかでも金銅仏(金を銅にメッキしたもの)が多いです。それ以外では、画に描かれた仏像がありますね。仏画といいますが、この場合は絹や紙などが素材と呼べると思います。
また、土で作る仏像もあります。土で作る仏像は2種類あり、一つは、モデリングと呼ばれる手法(土をぺたぺたと盛り上げて形作る)で作られる「塑像」です。もう一つは、土を型にはめて焼く「塼仏」です。「塼(せん)」というのは簡単に言えば「タイル、煉瓦」の意です。塼仏は、タイルやレンガに仏像が立体的に浮き出ているようなものと思って下さい。
土で作る仏像は、主に7世紀に中国や韓半島で大流行し、直輸入で日本に伝わりました。結論を先に言いますと、伝播の最盛期ころの日本の都が大津だったのです。大津京関連の寺には塑像がたくさんあり、これらは当時の最先端技術で作られていますし、おそらく飛鳥よりも先に伝播しています。
日本のものは「塑像は焼かない」「塼仏は焼く」と考えてよいでしょう。韓半島や中国では焼く塑像があるのですが、日本ではこれを受け入れず、焼かない塑像だけを受け入れました。日本という国は常に取捨選択をしてきたわけです。かといって、日本にはまったく焼いた塑像がないかというと、実は大阪泉南の海会寺廃寺では焼いたものが見つかっています。また、全国の出土塑像の半分以上は螺髪ですが、この螺髪部分は焼いて作っていた可能性が高いといえます。というのも、鳥取の上淀廃寺で見つかった塑像では、螺髪を頭皮部分にぐりぐりと押して貼り付けたような跡が見られ、(土同士では押し付けられませんから)螺髪は焼いて硬くしていた可能性があります。このように、日本では基本的に焼かない塑像ですが、寺が火事になってしまい焼けて出土するケースもあります。勿論、焼けていない元の塑像も東大寺などには残っています。

大津京以前(7世紀前半)の比叡山と長等山

大津京以前に、近江のお寺としては「穴太廃寺」が在ったようです。これは比叡山山麓に在り、「比叡山信仰と穴太廃寺には関係があったのでは」と私は考えて調査しています。穴太廃寺は近江最古の寺院です。
また、比叡山と長等山(千石岩)辺りでは「古代祭祀」があったと推測されます。未だその痕跡ははっきりとは出ていませんが、比叡山の麓に「八王子山」と呼ばれる小さい山があり、これは坂本からは大変綺麗に見える山ですので、坂本の人々は信仰の対象にしていたと思われます。かつて坂本に住んでいた神道美術の権威・景山春樹先生も、八王子山を見て『神体山』という立派な本を書かれました。八王子山には「岩倉」と呼ばれる大きく立派な岩があります(ここの岩倉は「金大巌」と呼ばれる)。日本では古来、立派な岩には神様がやって来られると考えていました。これは神道の原型ですが、神様は目には見えないし、何処にいらっしゃるのか分からない、というのが日本の神様の特徴でもあります。神様は綺麗な山や岩や樹木にやって来られる、と考えたようです。これは長等山においても同様で、長等山を眺めると、北の山肌の途中に「千石岩」が綺麗に見えます。この岩は大津方面をはじめ、色々な方向から見られますから、「古代の人々が千石岩に何も感じなかった訳が無い」と思います。この岩に対して神を感じ、祈りを捧げたと推測されます。ましてや大津京の真横にありますから、大津京内で千石岩に対する祭祀があったはずです。

大津京時代(667〜672)の寺院と神社

大津京は、天智天皇によって飛鳥から遷都されました。天智天皇は仏教に深い理解があった方で、すでに大津「宮」の中には仏殿が在ったという記録が出ています。百仏や、刺繍の仏像も在り、宮の中ではすでに仏像がまみれていた、ということが分かっています。

■南滋賀廃寺

南滋賀廃寺は、大津京の真北に接しています。大津京関連の中ではもっとも中心的な寺だったと思われます。最近、ここから「錦寺」と書かれた土器が発見され、「南滋賀廃寺=錦織寺」という昔からの説も信憑性が高まっていて、錦部氏となにか関係があった可能性があります。塑像の断片も出土しています(今回は瓦に関しては触れません)。

■崇福寺

崇福寺は、「大津京の北西の山中に在った」と記録に出ています。かつて大津京の位置が判明していなかったとき、逆に「崇福寺の南東に都が在る」と考えて探しました。また崇福寺は山の途中にあることから、一説では「我が国の山岳寺院のはしりの一つ」ともいわれています。場所は、「山中越」と呼ばれる滋賀と京都を結ぶ大きな道路に面して在ったとされています。一説によると「大津京に関係する寺はすべて古代の道に面していた」といわれており、昔の寺は半分「城」みたいなものですから、都を守る位置に建てられたのかも知れません。先ほど紹介した南滋賀廃寺も、これから紹介する三井寺も北陸道に面しており、この二寺で都の南北を挟んで守り、崇福寺は山を守っていたと考えられます。また崇福寺は、奈良時代に「十大寺(全国のお寺のトップ10)」の一つに成りますが、これが現在一般にはあまり知られていません。崇福寺はかつて近江で最大の寺院でした。仏像としては、塑像の断片と、塼仏が出土しています。塼仏は厚さ約1cmのタイルに仏像が浮き彫りにされたもので、それが何十、何百とずらーっと壁に貼られていました。それは立体的な壁画のようで、しかも恐らくは一面黄金に塗られていたと考えられています。これは「ひょっとしたら“三千仏”(形式)かな」という気がしているのですが、ちょっとそこまでは言い切れないです。まだ、如来が二種類しか出土していないからです。でもその内の一つが珍しいので紹介します。基本的に、「如来の仏像で合掌しているものは無い」のですが、ここの出土物は合掌しているのです。私の知る限りでは日本で二つ、東大寺二月堂の十一面観音(秘仏)の後背に描かれているものと、この崇福寺の仏像だけです。

■園城寺前身寺院

園城寺前身寺院は、大津京の南に接する位置に在りました。小関越え、北陸道が通る場所です。今まさに私たちが居る元正蔵坊、ここのすぐ北に鳥居がありますが、その前の通りが古代の幹道です。今は普通の住宅の道ですが、古代のハイウエイだと思って下さい。ここを通らないと飛鳥にも北陸にも行けませんでした。園城寺前身寺院は大友氏と関係があると推測されていますが、研究は進んでおらずまだまだこれからです。仏像としては、発掘されていない理由は、中心地に国宝の金堂があるために発掘ができないのが事実です。おそらく、金堂にいらっしゃる秘仏中の秘仏である御本尊が、当時に作られた金銅仏ではないでしょうか。誰も見たことがないので分かりません。記録上では、三井寺は400年前に豊臣秀吉にから「闕所」を言い渡され、一時的にお寺を辞めさせられています。その時に、御本尊は京都大仏(今の京都国立博物館西側に在った)のところへ、黄不動さんや円珍さんの木像と一緒に疎開しました。

■穴太廃寺

穴太廃寺は、大津京以前から在ったと先に紹介しましたが、実はこの大津京の時代に再建され、寺の建つ向きが変わりました。以前の寺は大津京とは全然関係ない方角を向いていましたが、再建後は大津京と同じ方角を向いています。その為にわざわざ壊して建て直したのだと思われます。仏像としては、穴太廃寺でも塑像の断片と塼仏が出土しています。しかし塼仏は壁貼りタイプではなく、安置タイプです。また「銀製の押出仏」も出土しており、銀で作った仏像は日本ではほとんどありませんが、そのうちの一つが出土しています。

■坂本廃寺

坂本廃寺は、寺の遺構はまだ出ていませんが、瓦などが出土しています。「坂本八条遺跡」とも呼ばれ、これは「比叡山山麓にあった白鳳寺院(7世紀)」と考えられているものです。或る9世紀の経の奥書に、「近江国の三津寺で書写した」ということが書かれていますが、坂本は、天台宗開祖の最澄(本名「三津首広野」)の出身の士族が本拠地としていた場所で、また、この経を書写したのは円敏(智証大師円珍の弟子)という天台のお坊さんですが、9世紀頃は天台宗もまだ遠くまで広がっていません。つまり、「三津寺」が在ったとすればその場所は「坂本」で、さらに「ひょっとすると三津寺が坂本廃寺のことか」と私は勘ぐっています。もしそうであれば事は重大で、比叡山山麓に「間違いなく」白鳳寺院があった、となります。そして、さらに想像は膨らみます。最澄が生まれるとき、父親が比叡山に登ってお祈りしたり自宅をお寺にしたりという伝承が残っていますが、もしかするとそのときのお寺が三津寺かも知れません。つまり、三津寺は最澄が生まれるまえにすでに在った(かも知れない)寺であり、延暦寺創建後、徐々に延暦寺に吸収されて無くなってしまった、ということです。
ただ、一番の私の関心事は仏像に関することです。下坂本の真光寺に、白鳳〜天平時代(7,8世紀)の銅造観音菩薩立像や、聖衆来迎寺などにもこの時代の金銅仏がいくつか伝わっています。つまり比叡山の周辺に、延暦寺よりも古い仏像がちらほら在るわけです。(坂本廃寺=)三津寺が、延暦寺創建よりもまえに在ったとすれば、これらの古い仏像は三津寺(=坂本廃寺)に伝わっていたという可能性が出てくるわけで、非常に重要な、興味深い話になってくるわけです。

■衣川廃寺

衣川廃寺は、堅田の少し南に位置します。ここでは塑像の螺髪の笵型が出土しています。例えば奈良の大仏の螺髪は966個ではなく492個だったわけですが、そもそも螺髪というのは小さいぶつぶつが何百個とあるので、大量生産した方が早く作れるわけです。螺髪の笵型は、全国ではここと鳥取の2例だけが確認されています。

■真野廃寺

真野廃寺では、最近、7世紀の塑像の断片が発掘されています。

■山階寺

山階寺は、これも大津京絡みなので一応説明しておきます。小関越えを越えると山科ですが、ここには中臣鎌足の屋敷が在りました(その中に在った山階寺というのが現在の奈良の興福寺です)。すぐ側には、天智天皇陵もありあます。山階(山科)も大津京の京域ともいえる、影響下のあるところでした。

■石山寺前身寺院

石山寺は、奈良時代に大仏建立の際に作られたというのは有名な話です。石山寺には古い仏像がたくさん伝わり、特に、6世紀の銅造如来立像は日本最古級のものです。日本では、500年代の仏像は数えるほどしか現存していません。但し、この如来立像も日本製ではなく中国製という説のほうが有力になってきています。大津京が滅びた理由というのは、皆さんご存知の通り「壬申の乱(672)」です。この乱では「瀬田橋」が最大の決戦の場になりましたが、その橋の麓にあるのが石山寺です。大津京関連の寺は、城のように交通の要所要所に建てられていたと紹介しましたが、瀬田橋の麓にもまるで要塞のような「伽藍山」があり、この山にお寺が無いのは不自然なほどです。しかしこの場所から古代の銅鐸が出土し、今、ここに石山寺前身寺院が在ったのではないかと考えられつつあります。

■北白川廃寺

北白川廃寺は、7世紀の大寺院で、比叡山の京都側・北白川というところに在りました。

■比叡山

大津京時代、比叡山そのものに寺が在ったかどうかは今の所分かっていません。

■日吉大社

日吉大社は、これは説明がとても難しい神社です。なぜなら、神様がいっぱいいるからです。今日は時間が無いので、簡単にエッセンスだけ言っておきます。先ず、比叡山は大津京のほぼ真北に在ります(日吉大社はその麓に位置)。日吉社(中心となる七柱の神様)は、3つのグループから成っています。東本宮のグループは、もともとの比叡山の神様で、その中心は「二宮」。二宮の神様は僧形神で、もともと比叡山上の波母山に鎮座されていました。波母山というのは今の比叡山ドライブウェイ途中にある峰道レストランの辺りです。ですから「比叡山の神・ヒエの神は波母山に鎮座」というのが正しい解釈です。「十禅師」は坂本の本来の神と考えられています。つづいて、西本宮グループは、外からやって来た神様です。先ずは「大宮」、一般に日吉さんといえばこの大宮を指し、一番偉い神様でして、大津遷都とともに飛鳥の三輪山から鎮座された神です。「聖真子」は平安初期に宇佐八幡から鎮座されました。皆さんご存知の通り、京都を守る大きな神社仏閣として挙げられるのが「鬼門の延暦寺」と「裏鬼門の石清水八幡宮」です。石清水八幡宮がやってきた時にこの聖真子を勧請したのは南都の僧侶ですが、そのとき天台の僧・円珍もこれを比叡山に勧請しました。「客人」は、北陸の白山(天台の末寺)の神様です。つづいて、八王子山グループは、これは先にも紹介しましたが、比叡山の麓にある大変きれいな小さい山で、金大巌という岩倉があり古代祭祀が行われていたと考えられ、そこにいる神様が男神「八王子」です。ちなみに「三宮」は女神です。八王子山は『山王曼荼羅』などの色々な絵図にも描かれ、そのことでよくこの山が神体山であると間違われますが、あくまでも神体山は比叡山です。
また、『古事記』(712年;原案は7世紀後半)にも比叡山のヒエの神のことが書かれています。
「大山咋神、亦名、山末之大主神、此神者、坐近淡海國之日枝山」とありますが、山末の「末」とは麓を指すのではなく「向こう側(山の上)」という意味で、これは、「山末之大主神は山の上にいらっしゃる神」ということになります。ここからは私の全くの妄想ですが、大津京から真北を見ると比叡山(しかしこれは「もたて山」)があり、そこからやや西の方へ主峰(大比叡)が消えていきます。ですから先の「山末」は、「大津京から見た大比叡」のことなのかなと私は思っています。山は、何処から見るかというのが非常に大事なのです。
また、先程、「東本宮のグループ」の中で軽く触れた「十禅師」ですが、もともとの十禅師のみ東を、つまり琵琶湖方面を向いています(他はすべて南つまり大津京を向いています)。湖西に在る他の神社も、例えば白鬚神社は鳥居が琵琶湖の中にありますが、東面して琵琶湖を向いています。これも神様が琵琶湖の方を向いているということで、もともと坂本の辺りではそういう信仰があったと分かります。但し十禅師の場合、それに日吉大社の信仰も乗っかっているため今では大津京の方を向いている、そう考えられます。
また、「大宮」さんが三輪からやって来たときは、琵琶湖から上陸しました。その時の様子は今の山王祭でも実演されていますが、当時、上陸したのは「唐崎」でした。その理由は、最初に申し上げましたように、「唐崎が大津京の港だった」からです。これは、比叡山と唐崎とが関係があるのではなく、「大津京を守るために来た神様なので最初に大津京の港・唐崎に上陸し」、そこから北に向かい坂本まで行かれたのです。

■三尾神社

三尾神社は、長等南境のもともとの地主神です。また、三井寺の神様としては「新羅明神」ですが、これは三尾さんにも乗っかってくる形になります。

■長等神社

長等神社は、大津京時代に出来たといわれていますが、詳細は不明です。

■早尾神社

早尾神社は、智証大師が「日吉社の早尾神」を勧請したといわれています。但し、山腹にある千石岩を考えると、もともと千石岩に関する社が前身として在ったのではないかと思います。

奈良時代(8世紀)
■『懐風藻』成立

これは、751年に書かれた漢詩集です。ここには「延暦寺以前、すでに比叡山には寺が在った」と書かれています。

■崇福寺が十大寺に

この時代、「崇福寺」が十大寺の一つに選ばれます。崇福寺は、我が国有数の大寺院でありつづけ、近江を代表する寺でした。伝教大師最澄の師である行表は、もともとここの住職です。最澄もこの寺に所属していたと考えられています。よく、何もない比叡山に最澄が入っていって開拓し、「比叡山」を作り上げたというイメージがあるかもしれませんが、それは全くの間違いです。すでに崇福寺が在り、白鳳時代からの神社も寺も在りました。また最澄自身も語っているように、入山して修行をした際には同胞がいたようです。

■比良山と比良明神

奈良時代、大仏建立の際に比良明神がお手伝いをしています。また最近、比良の麓、木戸西方寺に奈良時代の仏像が伝来していたことが分かりました。比良山に奈良時代の仏像があるということは、「比叡山にも奈良時代の仏像があったであろう」と想像してもいいかと思います。

■長岡京・平安京の遷都

桓武天皇が平安京遷都を行います。奈良時代の天皇は天武天皇の系統でしたが、この桓武天皇は天智天皇の系統ですので、とても敬愛していたと思います。そこで、当時すでに「古い港」と呼ばれていた天智天皇の都“大津”に対し、「昔の名前に戻しなさい」とわざわざ命令を出します。大津は「都の港」、つまり京都の港になりました。また、園城寺前身寺院もここに来て一気に活発化します。この頃の仏像が、今の園城寺にも伝わっています。

■梵釈寺

時を同じくして、梵釈寺が作られます。崇福寺のすぐ隣にあったという説が有力で、作られた時期は最澄が比叡山に入る前の年です。崇福寺の隣に梵釈寺が出来たということは、これは桓武天皇の仏教政策ですから、比叡山〜長等山の辺りを「近江の仏教文化の一大センターにしよう」と計画されたわけです。全国からもたくさんの経をこの地に集めました。そして、そういった話を聞きつけた伝教大師も、天台大師チギなどの経をここで書写したのです。伝教大師はそれまで天台教のいろいろな話を聞いて「原本を読みたい」と思っていたところでしょうから、梵釈寺でそれを集めていると聞いて、きっと大喜びで行かれたことでしょう。そしてこれを基に研究し、後に中国(唐)へ渡ったのです。

大津京を飲み込み、平安時代へ

788年に、伝教大師最澄は比叡山寺を開創しました。その後866年、智証大師円珍によって園城寺前身寺院が「天台別院」になります。私は、この天台別院(園城寺)は、円珍一派の里房的役割を持っていたと思います。それまで円珍一派は比叡山の山王院を本拠地としていましたが、この山王院の里坊ということです。園城寺は大津の港の喉元、つまり一番良い所にある房なわけです。それを天台別院にして、円珍派の拠点の一つにしたのではないかと思います。「比叡山と三井寺」というのは、喧嘩をした歴史のほうが皆さんよくご存じかと思いますが、やっぱりこの二寺は「一つのお寺」だと思った方が良いです。間には崇福寺も梵釈寺もありますし、山と山は繋がっていますから、「一つの大きい比叡山延暦寺」と、その内の円珍派の拠点「三井寺」と捉えて頂く方がいいのかなと思います。

まとめ

「大津京時代の大津」そして「伝教大師以降の大津」は決して断絶していない、これが今日皆さんにお伝えしたかったことです。大津京時代の仏教政策というものが基本中の基本にあり、くしくも大津京を造った天智天皇の血筋の桓武天皇が平安京に都を造り、また大津は活発化していった、つまり、大津京を受け継いで活発化していったということです。

スライド解説

■崇福寺の塼仏

この塼仏は、大きさは20cmほどで、タイル端に杭穴が開けられています。杭を使って壁に打ち付けていたということです。先程お話したように、如来さんが合掌されていますね。

■穴太廃寺の安置タイプの塼仏

中国の玄奘三蔵がインドから持って来たままの像が十年後に中国にやってきて、また中国から道昭という僧侶が日本に持ってきたもので、リアルタイムで伝わっているのが分かる塼仏です。

■衣川廃寺の螺髪の笵型

裏側には溝が彫られていて、そこに紐を通して固定し、笵型がずれないようにしていました。

■比叡山に伝わる朝鮮三国時代の仏像

このようなものがずっと昔から比叡山に在ったのか、なかなか分かりませんけれども。

■木戸・西方寺の木像十一面観音坐像

これは「木心乾漆」といい、木彫り像の原型に、漆を盛り上げて作っているものです。

■山王曼荼羅(数点)

唐崎の松を描いたもののうち一番古いのは、この「山王曼荼羅」と呼ばれるものです。山王曼荼羅は、鎌倉時代からあります。曼荼羅の下部に、唐崎の松が描かれており、大宮さんが湖から上陸し、日吉さんにお会いして、そこからさらに比叡山上へいく、ということが描かれています。日本最古の山王曼荼羅は、西教寺に伝わるもので、13世紀のものです。これの下部を赤外線カメラで撮ると、細い唐崎の松の絵を確認できます。
以上です、ご清聴ありがとうございました。

◆秘佛善光寺式阿弥陀如来像などの見学

総本山三井寺の福家俊彦執事長によるご案内で、非公開文化財(秘佛善光寺式阿弥陀如来像ほか)の特別公開・見学が三井寺別所・近松寺にて行われました。

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